プロ野球におけるプレーオフの歴史。パ・リーグには幻の制度があった (2ページ目)

  • 阿佐智●文 text by Asa Satoshi
  • photo by Kyodo News

 この前・後期制によるプレーオフは、興行的には当時パ・リーグのレギュラーシーズンではほとんどなかった"大入り"が多く、その点ではそれなりの成功を収めた。

 ただ、消化試合を減らすという点においては、シーズンの盛り上がりが2度あるものの、優勝が決まってしまえばその後は消化試合となるわけで、大きな解決策とはならなかった。

 この制度に猛反発したのが、1982年に西武の監督に就任した広岡達朗だった。広岡は「手を抜こうと思えばいくらでも抜ける制度」と批判。彼に言わせれば、前期を優勝したチームはプレーオフに備え、後期シーズンは休養をとりながら試合ができるし、反対に前期シーズンを調整にあてて、後期シーズンに照準を合わせて戦うこともできるというのだ。

 実際、そんな割り切り方をして戦う選手や首脳陣はほとんどいないと思うのだが、とにかく長いシーズンを全力で戦った上での最強チームが「日本選手権(広岡はこの言い方を好んで使う)に出場すべき」というのが持論だった。

 広岡の主張が通ったわけでもないのだろうが、西武が中日を破り日本一に輝いた1982年限りで、前・後期制は廃止された。

 それに伴い、当然プレーオフもなくなるはずだったが、その集客力の魅力にリーグ当局が勝てず、翌1983年からは130試合制のレギュラーシーズンのあと、ゲーム差が5以内の場合に限り、上限5試合までのプレーオフを行なうという"変則プレーオフ制度"を採用した。

 これはアメリカのマイナーリーグの一部が採用していた制度で、たとえばシーズン終了時点で1位と2位のゲーム差が4.5の場合、2位チームが5連勝すればレギュラーシーズンとプレーオフを合わせた年間勝率が1位のチームを上回るので、2位チームが優勝となる。

 この方式だと、年間勝率の低いチームが高いチームを差し置いて優勝という矛盾は起こらないが、プレーする側にしてみれば、たとえばマラソンのゴールテープを切ったあと、タイムが僅差なのでラックをもう1周走って勝負しろと言われているようなもので、心情的には受け入れにくい。

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