DeNA光山コーチの原点は
「仰木監督・叱られる中村武志・少年野球」

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by(C)YOKOHAMA DeNA BAYSTARS

【連載】チームを変えるコーチの言葉~横浜DeNAベイスターズ バッテリーコーチ・光山英和(4)

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 嫌なコーチに上からモノを言われたら、選手は抵抗、反発し、対話も先に進まない。しかし信用しているコーチなら、同じように言われても自然と話がつながる。大事なのは相手を信用し、相手に信用される関係を築くため、対話を通してお互いに理解し合うこと。
コーチングの原点は少年野球の指導だったと語る光山コーチ(写真左)コーチングの原点は少年野球の指導だったと語る光山コーチ(写真左)
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バッテリーコーチの光山英和は、そのように対話が不可欠のコーチングを活用して、指導に当たっている。それは現役時代に自身が経験できなかったからこそ、という面もあった。光山が当時を振り返る。

「コーチとは違うんですけど、僕、近鉄のときに仰木(彬)監督が嫌いやったんです。ホンマにそれこそ信用どころか、『嫌われてる』と思ってたんですよ。試合でミスをしたら怒られるのは当然として、次の日、球場の通路で監督とすれ違ったとき、なにも言わずにじっと睨まれたり。ノーアウト満塁で監督が出てきて、ピッチャー交代かと思ったらキャッチャー交代で、自分がベンチに下げられたり......。あれほど恥ずかしいことはなかったですね。そんなんで1年間に5回か6回は抹消されて、『これ、二軍落ちの日本記録ちゃうか?』って思うぐらいに(笑)」

 光山は大阪・上宮高から1983年のドラフト4位で近鉄に入団し、プロ3年目から一軍の試合に出場。89年はケガで出遅れながら日本シリーズ出場を果たすと、第3戦では貴重な本塁打も放った。

 すると、翌90年は監督の仰木に見出され、超大物ルーキーの野茂英雄とよくバッテリーを組んだ。ワンバウンドする野茂のフォークをしっかり止めるブロッキング、トルネード投法でモーションに間があっても盗塁阻止できる肩が重宝された。が、光山本人にとっては、この野茂も仰木を嫌う原因のひとつとなった。

「野茂がいつも首を振るんですよ。清原(和博)との対決のときもそう。こっちは死ぬほどフォークのサイン出してるのに、首振って、真っすぐで打たれて。ベンチに帰ったら仰木監督、『なに真っすぐ投げさせとんじゃ!』と。観衆3万人、全員が首を振っているのをわかっているのに、監督だけわかってないはずないでしょ? と(笑)。それでほかの選手に肩を叩かれて、『我慢せえ、我慢せえ』と。1年間、そんな状態で過ごしたんですね」

 その一方、入団から2年間、二軍で下積みだった頃、バッテリーコーチからの技術指導は実になるものが多かった。半面、一軍でレギュラー級になって以降も、悩まされる問題があった。

「僕は近鉄のとき、ずっと『リードが悪い』って言われてたんです。それも抽象的な言われ方で、『リードが悪い』『配球が悪い』と。抽象的なので、どう改善したらいいかはわからない。具体的に知りたいという思いが強まって、『ほな、お前が出せや』と言わないまでも、態度に出してしまったときもあったかもしれません。それが、トレードで行った先でわかったんです。これは今の選手にも話すんですけど、初めて、自分が『リードが悪い』と言われた意味がわかったんですよ」

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