DeNA光山コーチの原点は「仰木監督・叱られる中村武志・少年野球」 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by(C)YOKOHAMA DeNA BAYSTARS

 97年の開幕直前、光山は中日に移籍する。そのとき、レギュラー捕手の中村武志はプロ13年目。経験も実績も豊富でありながら、首脳陣から「リードが悪い」と叱責されていた。中村にとって光山は1学年先輩だったこともあり、ある日の試合後、相談に来たという。

「星野仙一さんが監督のときで、中村はめちゃくちゃ怒られていました。それで僕とロッカーが近いというのもあって、『リードが悪いって、何が悪いか、わけわからんですよ......』と言うわけです。で、実際に見てみたら、明らかに悪いんですよ、リードが。『あっ、オレ、これと同じことやってたんや』と思って。

 たしか、真っすぐで打たれて、『なんで真っすぐなんだ!』と怒られているのを見て、『いや、たしかにあの場面は真っすぐじゃないわ。なんでフォークいけんかった?』と、僕自身は違う配球を考えられたんです。中村には悪いけど、それが反面教師になって、ようやく自分のなかで配球というものがつながった。まさにジグゾーパズルの残り何ピースの1ピースがおさまったみたいで、『はまったわぁ』と思ったのを覚えています」

 移籍をきっかけに自身の姿を客観視することができた光山は、苦手を克服した。このときを境に、周りからは逆に「リードがいい」と評価されるようになる。力の衰えもあって出番は多くなかったが、抑えの捕手を務めることもあった。

 さらに、99年5月に移籍した巨人でも実力を発揮し、一時は桑田真澄の専任捕手的なポジションも得た。近鉄時代以上に、中日、巨人での経験が今に生きているという。

 翌2000年は一軍出場がなく、01年はロッテ、02年は横浜と渡り歩き、03年の韓国・ロッテを最後に、現役を引退。04年からはテレビ、ラジオで野球解説の仕事をする傍ら、少年野球チームでの指導も行なっていた。解説者としては選手にインタビューする機会も多く、そこでの対話がコーチングにつながった部分があるのだろうか。

「どちらかというと、選手へのインタビューよりも、少年野球の指導の方が大きいかなと思います。子どもに対しては、何事もわかりやすく言う必要があります。それでちゃんと教えれば、キャッチボールもできなかった子が連係プレーまでできるようになる、ということもわかりました」

 子どもにもわかるように伝える指導を、光山は7年ほど続けた。その間、野茂が運営するNOMOベースボールクラブでもコーチを務めた。現場で選手が成長する姿を長く見てきて、「一度はプロでコーチをやりたい」という思いが募ったとき、突然、西武監督(当時)の渡辺久信から電話がかかってきた。2010年のオフのことだ。同年の西武は、ゴール目前でソフトバンクに逆転優勝を許していた。

「渡辺監督と自分は同じ年なんです。『たぶん1年だけだけど、やってくれんか?』と。『1年だけ』っていうのは、監督本人が次の年に勝負をかけてるという意味でした。それやったら、なおさら面白いなあと思って、『ほんなら、やらしてもらうわ』って答えたんです」

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