京大初のプロ野球選手、田中英祐「4年間の軌跡」

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

「これまで野球を辞めるタイミングは2回ありました」

 昨秋のドラフトを数日後に控えたある日、田中英祐はそう言った。

 一度目は兵庫県にある中高一貫の進学校、白陵から京都大学工学部に進んだ4年前の春。高校時代の田中は2年の夏、前年甲子園出場の加古川北高を7回1失点に抑える好投を見せ、「進学校に好投手あり」と話題になった。しかし、3年夏は味方のミスも絡み7失点で初戦敗退。「野球はもういいか」と思ったという。だが田中は、入学すると野球部への入部を決めた。

「野球をやらなかったら、ただの京大生になるなと思ったんです。周りには僕より賢いヤツはいくらでもいる。中学、高校の時もそうでしたけど、野球部でピッチャーをやっているのが僕でした。だから、野球をやっていない自分は想像できなかったんです」

昨年秋のドラフトでロッテから2位で指名を受け、京大初のプロ野球選手となった田中英祐昨年秋のドラフトでロッテから2位で指名を受け、京大初のプロ野球選手となった田中英祐

 そして2度目は、大学4年の時だ。三井物産から内定をもらい、これから野球人として生きていくのか、それとも企業人として生きていくのか、大いに悩んだという。それでも最後は大好きな野球の道を選んだ。

 そもそも大学に入った当初、田中はプロの世界へ進むということは想像もしていなかった。田中の中で「プロ」の2文字が浮かんだのは、「大学3年になってから」だったという。だが、本人よりもひと足早く、その可能性を見抜いていたのが、京大野球部の監督を務めていた比屋根吉信だった。

 比屋根は1976年から沖縄・興南高校で監督を務め、6度甲子園に出場した。豊見城、沖縄水産で指揮を執り沖縄野球の基礎を作ったとされる栽弘義(故人)の牙城を崩し、一時代を築いた人物でもある。その比屋根が野球部の強化を託され、田中が入学する前年に京大野球部の監督に就任した。比屋根が田中との出会いをこう振り返る。

「投げる姿を一目見て、これはプロの素材だと思いました。真っすぐは140キロを超し、何よりも腕の振りが速かった。これだけ腕が振れるのは、しっかりと体全体を使えているからで、4年後には京大初のプロ野球選手が誕生すると思っていました」

 京大が所属する関西学生リーグは京大の他に、近畿大、立命館大、関西大、関西学院大、同志社大がおり、京大は最下位が指定席になっていた。そんな中での原石との出会いに、比屋根の気持ちも昂(たか)ぶった。

「興南高で指導している時もプロに進んだ選手が何人かいましたが、彼らと比べても田中はまったく見劣りしません。足りないものは経験だけでしたね。とにかく、これから活躍するための基礎を作る。最初はそこから始めました」

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