阪神一筋22年。桧山進次郎が「代打の神様」と呼ばれるまで (3ページ目)

  • 岡部充代●文 text by Okabe Mitsuyo
  • 益田佑一●写真 photo by Masuda Yuichi

 その暗黒時代に、桧山は「不遇の時」を経験した。野村克也監督就任2年目の00年に、レギュラーの座を剥奪されたのだ。スタメン出場はわずか37試合。8月下旬まで打率は2割にも満たなかった。それでも一度もファームに落とされなかったのは、「練習だけは手を抜かず、レギュラーだったとき以上にやっていた。そんな姿を見てくれていたのかもしれない」と、桧山は考えている。

 ただ、実際は「ちょっとふてくされていた時期もあった」。それがある日突然、「一生懸命やってダメなら仕方ない」と吹っ切れたのだと言う。

「今の状況は自分に与えられた試練。この壁を乗り越えたら、どんな人生が待っているんやろうと考えたら、苦しんでいる自分さえ楽しめるようになった」

 ベンチにいるときは、野村監督の“つぶやき”を聞きながら、配球を読むようになった。打席に入る前の準備や心構えについても考えるようになった。その経験が生きたのか、翌01年には再びレギュラーの座を取り戻し、プロ10年目で初の打率3割をマーク。初めて監督室に呼ばれ、「3割は初めてか。おめでとう。打線の中心としてよく頑張ってくれた。ありがとう」と言われたことは、今も忘れられない思い出だ。

 前年オフの結婚も、桧山にとって大きかった。紗里さんは4人姉妹の中で育ったこともあり、いわゆる“野球オンチ”。だからこそ、プロ野球選手の夫に悪びれずハッパを掛けることができた。

「テレビを見て、僕の肩に力が入っていると感じることがあるようで、家に帰ると、『もっと楽しんでやればいいのに』って言われるんですよ(笑)」

 結婚当初、そんな話を桧山から聞いた覚えがある。そして、こう続けた。

「新鮮ですよね。野球をよく知っている人は、僕に気を使って、そんなこと言ってくれませんから」

 紗里さんのスタンスは、結婚から10年以上たった今も変わらない。今季限りでの引退を表明して以降、桧山のバットから快音が聞かれなくなった。9月11日の中日戦(甲子園)で左ふくらはぎに死球を受けた影響もあったのだが、ファンの声援がより大きくなっていただけに、桧山にとってはつらい時期だった。普段は野球を家に持ち込まない夫が、珍しくため息をついた時、紗里さんは言った。

「残り何試合もないのに、そんなつまらなそうな顔をして野球やるのやめてよ。もっと楽しく野球をして」

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