【MLB日本人選手列伝】大塚晶文:「ポジティブ・シンキング」で大成功 リリーバーとして確かな実績を残したメジャー3年半の輝き
パドレス、レンジャーズでは制球力を武器にリリーバーとして活躍した大塚晶文 photo by Getty Images
MLBのサムライたち〜大谷翔平につながる道
連載15:大塚晶文
届かぬ世界と思われていたメジャーリーグに飛び込み、既成概念を打ち破ってきたサムライたち。果敢なチャレンジの軌跡は今もなお、脈々と受け継がれている。
MLBの歴史に確かな足跡を残した日本人メジャーリーガーを綴る今連載。第15回は、リリーバーとして活躍を見せた大塚晶文を紹介する。
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【実況アナが絶叫した「ハチミツ!」の由来】
大塚晶文が三振を奪うと、サンディエゴ・パドレスの実況担当が、"Hachimitsu!"とコールするようになった。
三振が、ハチミツ? どうしてこんなことになったのか、直接、大塚に尋ねたことがある。
「僕が三振を取った時に、"ヨッシャ!"と叫んでいたんです。あれはどういう意味なんだ? と質問されて、英語でいうところの"I did it!"、いいことがあった時に叫ぶ言葉なんだよ、と答えました。そうしたら、『それはなにかスイートなことが起きた時に言う言葉だね?』と実況アナウンサーの人に言われて、そうそうと答えたら、いつの間にかハチミツになっていました(笑)」
大塚は横芝敬愛高(千葉)から東海大に進み、日本通運を経て1997年に近鉄バファローズに入団した。背番号は11。野茂英雄がつけていた番号を選ぶあたり、大塚の挑戦者に対する尊敬、憧れが感じられる。
メジャーリーグで自分もプレーしたいと本格的に考えるようになったのは、1998年の日米野球に参加した時だった。
「来日していたパドレスのトレバー・ホフマンが、かなり早い時間帯から球場に来て、黙々と練習していたんです。本来はシーズンが終わってオフの時期です。休んでいてもおかしくないのに、体調を維持して次のシーズンに向けて準備をしていたんですね。その姿勢に心を打たれました。それから、自分もメジャーでホフマンと勝負したいという気持ちになりました」
メジャーリーガーへの憧れを抱きつつ、6年間近鉄バファローズでプレーし、2002年のシーズン終了後にポスティングによるメジャーリーグ移籍を目指した。ところが、応札する球団がひとつもなかった。
「まさか入札がないとは思っていなかったので。あの時はかなり落ち込みました。食事も喉を通らなかったくらいです。それでも、もう一度メジャーに挑戦しようと思い、2003年は中日でお世話になり、自分なりに新しい環境にどれだけ順応できるか試しながら、シーズンを送っていました」
著者プロフィール
生島 淳 (いくしま・じゅん)
スポーツジャーナリスト。1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大学卒業後、博報堂に入社。勤務しながら執筆を始め、1999年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る一方、歌舞伎、講談では神田伯山など、伝統芸能の原稿も手掛ける。最新刊に「箱根駅伝に魅せられて」(角川新書)。その他に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」(文春文庫)、「エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは信じること」(文藝春秋)など。Xアカウント @meganedo

