【MLB日本人選手列伝】石井一久:確かな足跡を残したサウスポーの鷹揚な性格と繊細な野球観
波乱万丈のドジャースでの3年間を過ごした石井一久。背番号は17だった photo by Getty Images
MLBのサムライたち〜大谷翔平につながる道
連載11:石井一久
届かぬ世界と思われていたメジャーリーグに飛び込み、既成概念を打ち破ってきたサムライたち。果敢なチャレンジの軌跡は今もなお、脈々と受け継がれている。
MLBの歴史に確かな足跡を残した日本人メジャーリーガーを綴る今連載。第11回は、2002年から3年間、ドジャースの先発として活躍した石井一久を紹介する。
【衝撃のデビュー戦、頭部への被死球】
2002年4月6日、ドジャー・スタジアム。
石井一久のメジャーデビュー戦の登板の日は、いまだに忘れがたい。
5回3分の2を投げて打たれたヒット2本、失点ゼロ、奪った三振は10個。初先発初勝利を挙げ、堂々たるデビューを飾った。
ただし、ロサンゼルス・ドジャースに入団するまでには紆余曲折があった。その前年、2001年9月11日にはアメリカで同時多発テロが発生、生活の安全性に疑問を抱かざるを得ず、一度は渡米をあきらめた。
「一度はそう発表しましたけど、世界一を狙うチームでプレーしたい気持ちが抑えられなくなったんですよね」
そして、ドジャースへ。当時、ドジャースはスプリングトレーニングをフロリダ州のベロビーチで行なっていた。春とは思えない凶暴な日差しの下で、黙々とトレーニングをする石井の姿が忘れられない。
石井はデビューから6連勝を飾り、6月8日には10勝に到達した。前半戦は、ローテーションの柱となっていた。当時の取材で、いくつか忘れられない言葉がある。
「メジャーの公式球、確かに革は滑りやすいです。でも、滑るほうが変化球は曲がりやすいし、いいんじゃないかと思います」
気になりそうなことを、ポジティブな要素へと変換できてしまうところに石井流の頼もしさがあった。
しかし、9月8日のヒューストン・アストロズ戦で打球を頭部に受けてしまい、突如、石井のシーズンは終わる。そのときの衝撃を石井はこう話した。
「急にコンセントを抜かれた感じで、目の前が真っ暗になりました」
病院で診察を受けると、頭蓋骨に"hair line fracture"、髪の毛のような細い亀裂が見つかった。それだけ、衝撃が大きかったということだ。それでも、気持ちはいつでも復帰できるように備えていた。
「入院中、点滴は必ず右腕にしてもらってました。左腕は仕事道具ですから」
1年目のシーズンは、14勝10敗で終え、回復に努めた。そして翌年の復帰戦。場所はサンディエゴだったが、この試合にも筆者は駆けつけた。敗戦投手とはなったが、メジャーのマウンドに戻ってきたことが喜ばしかった。
石井は2003年に9勝、2004年はメジャー最多となる172.0イニングを投げ、13勝を挙げた。振り返ってみると、30歳のこのシーズンがベストだったかもしれない。
翌年、石井はスプリングトレーニング期間中にニューヨーク・メッツへと移籍することになり、筆者は貴重な体験をした。トレードが決まったのは3月20日。4月に入ってニューヨークへ取材に行ったときに、一緒に不動産物件を見て回ることになったのだ。ニューヨークのアパートメント事情を知る貴重な機会になった。
メッツでは3勝9敗と不本意な結果に終わり、球団からリリースされ、日本球界復帰が決まった。
著者プロフィール
生島 淳 (いくしま・じゅん)
スポーツジャーナリスト。1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大学卒業後、博報堂に入社。勤務しながら執筆を始め、1999年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る一方、歌舞伎、講談では神田伯山など、伝統芸能の原稿も手掛ける。最新刊に「箱根駅伝に魅せられて」(角川新書)。その他に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」(文春文庫)、「エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは信じること」(文藝春秋)など。Xアカウント @meganedo

