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【高校野球】「ケガさえなければ巨人の4番だった」 KK世代の野球人が語る清原和博と並び称された伝説のスラッガー (3ページ目)

  • 新田光●文 text by Hikaru Nitta

東海大浦安の二塁手として1985年の春の甲子園に出場した新藤純氏。初戦で優勝した伊野商に敗れた 写真は本人提供東海大浦安の二塁手として1985年の春の甲子園に出場した新藤純氏。初戦で優勝した伊野商に敗れた 写真は本人提供この記事に関連する写真を見る新藤 あのホームランは、ある意味"リベンジ"だったと思う。春の選抜で、PLは準決勝で伊野商に敗れ、清原も渡辺智男から3三振を喫して、悔しくて夜中まで練習したという話を聞いたんだ。その渡辺が「高知には自分よりすごい投手がいる」という趣旨のことを言っていて、それが中山だった。夏は渡辺との再戦はかなわなかったけど、その渡辺が高く評価していた中山から清原がホームランを打った。ある意味、「春のリベンジを果たしたな」という印象があったよね。

柳沢 桑田とは夏の大会が終わってから、うち(帝京)の藤波(清)と3人で会ったことがあるんだけど、体ががっしりしていて驚いた。厚みがあるんだよね。それに人の悪口を絶対に言わないし、「いいヤツだな」と思ったよ。

小板橋 社会人になってから聞いた話だけど、木島が全日本で桑田と同部屋になった時、「小さいのに、なんでそんなに速いボールを投げられるの?」って熱心に質問していたらしい。本当に研究熱心なんだよね。

寺島 木島は身長165センチもなかったと思う。それでも本当にいいボールを投げていた。

新藤 習志野四中(千葉)のエースだったんだけど、中学時代に対戦したなかでは、木島が一番速かった。

【もうひとりの怪物スラッガー】

── 東海大浦安には、「東の佐久間、西の清原」と称された左の強打者・佐久間浩一さんがいました。

小板橋 千葉西シニア出身だよね。

新藤 中学時代から有名で、高校1年の夏から5番を打っていた。清原より体が大きくて、パワーはとんでもなかった。高校3年春の選抜でも伊野商の渡辺から先制の二塁打を打っているし、あれだけ大型なのに陸上で記録をつくるぐらい足も速かった。

小板橋 ケガさえなければ......と思うよ。

新藤 高校時代に痛めた左手のケガさえなければ、巨人で4番を打っていたと思う。

寺島 どんなケガだったの?

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