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【追悼】渡辺元智から村田浩明へ ひとりの少年の人生を変えた新聞記事と、横浜高校に受け継がれる"魂" (3ページ目)

  • 楊順行●文 text by Nobuyuki Yo

 そんな失意のなかにいた1965年、横浜高校から「野球部のコーチをやってくれないか」と電話がかかってきた。

「やらせてもらいます」

 また野球ができる。その思いで即答した。

【厳しさだけでは人は育たない】

 しかし、指導者としての理論も経験もない。1968年に監督へ就任すると、ただがむしゃらに厳しい練習を課し、1973年春には選抜初出場で初優勝。当時28歳という若さだった。

 ただ、「オレについてこい。闘志なき者はグラウンドを去れ」という熱血指導は、すべてがうまく回っているうちはいい。しかし、ひとたび歯車が狂えば、経験不足や理論の甘さが表面化する。春夏連覇を目指した1973年夏は、桐蔭学園に0対1で敗れ、甲子園出場も逃した。

 スパルタだけでは限界がある──そう感じ始めた渡辺に転機が訪れたのは32歳の時だった。教員免許取得のため関東学院大学に通うなかで、選手との距離の取り方が変わっていった。

「手取り足取り教えるのではなく、黙って見守るのも指導だと思う。あとで言葉をかければ、『見ていてくれたんだ』という信頼が築ける」

 根強く残っていた陰湿な上下関係も、時間をかけてあらためていった。その積み重ねが1980年夏の全国制覇へと結実する。厳しさ一辺倒だった指導から、選手とのコミュニケーションを大切にする指導へ。渡辺自身も、監督として成長していった。

 1986年、初めて渡辺監督を訪ねた時、こんなことを話していた。

「監督と選手、あるいは選手同士が、目と目で相手をわかり合えるアイ・コンタクトが理想なんです」

 サッカー日本代表を率いたハンス・オフト監督によって「アイ・コンタクト」という言葉が広く知られるようになるより、ずっと前のことだ。

 横浜では、監督のサインに選手が疑問を感じたときには、必ずタイムを取って確認することを徹底していた。これもコミュニケーションを重視した渡辺野球のひとつだったのだろう。

「いくら点差があっても、その場でできる最善のプレーをする......これが横浜の強さやな」

 1998年夏、6点のリードを8、9回でひっくり返された明徳義塾・馬淵史郎監督はそう漏らした。

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