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【追悼】渡辺元智から村田浩明へ ひとりの少年の人生を変えた新聞記事と、横浜高校に受け継がれる"魂" (2ページ目)

  • 楊順行●文 text by Nobuyuki Yo

 それ以降、チームは「丹波のために」を合言葉に戦った。丹波のトレーニングウェアを切り分けてつくったお守りを全員が身につけ、翌春の選抜出場を果たした。しかし、甲子園では初戦敗退。それでも夏は激戦区・神奈川を勝ち抜き、再び甲子園へ戻ってきた。

 渡辺監督は選手たちに「甲子園に行くまでは丹波のため。甲子園に行ったら、自分たちの野球をやろう」と伝え、自分だけが丹波の遺影をしのばせていた。

 北嵯峨戦の勝利は、天国に届いただろうか。丹波よ。背番号1を受け継いだ松井は、立派に投げてくれたぞ──。そんな思いが、お立ち台で涙となってあふれたのだろう。その温かい人柄こそ、「ゲンさん」と親しまれた渡辺監督の大きな魅力だった。

【人生を変えた母校からの電話】

 1968年の監督就任以来、一時は部長に退いた時期もあったが、2015年まで47年の長きにわたって横浜を指導した。春夏通算27回の甲子園出場で51勝を挙げ、春3回、夏2回の全国制覇を成し遂げた。

 だが、その指導者人生は決して順風満帆だったわけではない。1944年生まれ。家庭が経済的に苦しかったこともあり、戦後の混乱期には家族そろって暮らすことができず、叔母の家の養子となった。本格的に野球を始めたのは横浜高校に入学してからだった。

 当時の笹尾晃平監督は、練習中は鬼のように厳しかった一方、ユニフォームを脱げば優しかった。渡辺は帰宅後、監督の家まで走っていき、個人的に素振りを見てもらったという。

「あれは、僕と違ってマジメだったからね」

 同級生で、のちに渡辺とコンビを組むことになる横浜高校野球部元部長の小倉清一郎はそう振り返っている。こうした日々の経験が、のちの指導者・渡辺元智の土壌となった。

 高校3年夏は神奈川大会準決勝で敗れ、甲子園には届かなかった。進学した神奈川大学では肩を痛め、2年途中で野球を断念。プロ野球選手になる夢を失った渡辺は荒れた。酒を飲み、車を乗り回し、ケンカもした。大学も中退し、「自暴自棄の日々だった」という。

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