【高校野球】「早実OBの王だけど、監督、おめでとう」 世界の王貞治から届いた留守電に涙...和泉実が明かす初めての甲子園 (2ページ目)
早実OBで、監督経験があり、サラリーマンではなく柔軟に動ける──そうした条件を鑑みた時、和泉が後任候補として浮上したのだろう。そして早実側の意向は、「すぐにでも来てほしい」というものだった。
「でもさ、南陽工にもいい選手がいて、チームも強かったから、『夏まではこっちを見たい』とお願いして、7月までは山口に残ったんですよ」
その夏、早実は和泉の同級生・阿久根が急きょ指揮を執ったが、初戦で日大一に敗れた。一方の南陽工もベスト8で敗退。和泉が指揮を執った9年間で、ついに甲子園出場は果たせなかった。
「和田さんのことがなかったら、早実と関わることはなかっただろう」と和泉は言う。南陽工へ赴いた時と同じように、早実への帰還もまた、さまざまな縁に導かれた結果だったのかもしれない。
【あと少しで届かない甲子園】
1992年8月、和泉は正式に早実の監督に就任した。選手たちの名前を覚える間もなく、すでに予定されていた愛知遠征へと出発した。
「中京大中京、愛工大名電と試合をしたけど、もうボロ負け。ボールが前に飛ばないんだもん(苦笑)。『これ、どうすんのよ』って思ったよ」
ところが、急ピッチで取り組んだ打撃練習が実り、秋季大会では準決勝まで勝ち進んだ。あとひとつ勝てば、選抜出場の可能性があるところまで来た。
準決勝は世田谷学園との打ち合いとなったが、7回二死、日没コールドにより10対14で敗れた。
「『暗くてボールが見えない』と。ゲームはもう成立していたからね。まさかそんな形で終わるなんて......。どうしようもないんだけど」
就任早々の甲子園出場は、もう少しのところで夢と消えた。世田谷学園はそのまま秋季大会を制し、準優勝の国士舘とともに翌春の選抜に選出された。
それから半年後の春、和泉は就任後初めての新入部員を迎えた。その選手たちが2年後の1995年夏、東東京大会(2004年から西東京に所属)の決勝まで勝ち上がる。勝てば1982年以来、13年ぶりの夏の甲子園。早実にとって、久しく遠ざかっていた聖地への切符をかけた大一番だった。
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