大阪桐蔭「藤浪世代」の大型左腕は社会人で覚醒 指名確実と言われ、ドラフト特番にも出演したが... (3ページ目)
10月には台湾で行なわれたBFAアジア選手権に日本代表として出場。リリーフで3試合に登板し、いずれも無失点に抑えて日本の優勝に貢献した。
この頃には最速も146キロまで上がり、その年の終わりには6年間続いた服薬も終了。医師からは「寛解」の言葉を告げられた。プロ解禁の2年目を迎えるにあたり、目の前にはいくつもの可能性が広がるはずだった。
【ある球団からの指名内定の知らせ】
しかしドラフト解禁のシーズン、1年目のような投球ができなかった。あの試合が......今も平尾の脳裏に残る一戦がある。
シーズン開幕直後、3月上旬に行なわれたオリックス二軍とのオープン戦。プロへのアピールには絶好の舞台で、平尾は先発を任された。4回まで無失点と完璧な立ち上がりを見せ、自信に満ちた投球は、前年の好調を彷彿とさせるものだった。
しかし5回、二死二塁からセンター前へ打球が抜け、ホームカバーへ走り出した瞬間、軸足の左太腿裏に痛みが走った。走者は三塁でストップ。次打者を一塁ゴロに打ちとり、何とかいい形でこの回を終えた。ベンチ裏に戻り、足の状態を確かめていたその時、「6回もいくぞ」と声がかかった。
まだ社会人2年目。自ら交代を申し出ることは憚(はばか)られ、マウンドへ上がった。だがその6回、満塁から宗佑磨に左中間を破られ、走者一掃の一打を浴びる。結局、この回の途中4失点でマウンドを降りた。
以降2カ月、実戦のマウンドから離れ、コンディション調整に努めた。都市対抗予選で復帰し、初戦と3回戦で先発勝利を挙げるも、第2・第5代表決定戦では勝ちきれず。第6代表決定戦で完封し、チームはようやく本戦出場の切符をつかんだ。
しかし、かつてのような球威は戻らなかった。都市対抗本戦では三菱日立パワーシステムズ戦に先発したが、初戦敗退。ストレートの勢いもキレも1年前とは何かが違っていた。
「コーチからは『左足の蹴りが弱い』と言われたこともありました。無意識に左足をかばう投げ方が身についてしまったのか、ボールの勢いが戻ってこなかったんです」
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