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【高校野球】春の大阪大会で公立校唯一のベスト8 堺東の快進撃はいかにして起きたのか? (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

 誘いに乗って久しぶりにグラウンドに立つと、"野球の虫"が騒ぎ始めた。「もっと野球がしたい」「もっと子どもたちと高校野球をしたい」。そんな思いは日増しに強くなっていった。

 やがて、2つの道が見えてくるようになった。ひとつは、外部指導員として私立校を中心に売り込む。もうひとつは、新たに教員免許を取得し、公立校を念頭に野球部の指導に関わることだった。

 考え抜いた末、鈴木が選んだのは後者だった。幼い子どもたちを抱えている現実を考えれば、安定した収入が必要だったからだ。たとえ野球の指導ができなくても、教員として安定できる道を選ぶべきだと思った。脱サラして新たな挑戦に踏み出すことができたのは、何よりも、専業主婦として2人の子育てに励んでいた妻が背中を押してくれたおかげだったという。

「嫁さんは、僕が仕事を辞めて、もう一度野球をやりたい、高校野球をやりたいって言った時に、『やったらいいやん』って喜んでくれたんです。普通に考えたら、小さい子どもが2人いて、安定した収入もあるのに、今から先生になるための勉強を始めるなんて、『何を考えてるの?』って思う人が多いはずなんですよ。でも、『勉強してる間は私が働くから、好きなようにやって』って、背中を押してくれた。嫁さんは、僕が野球をやっていた時代を知っているから、野球をしなくなった僕には魅力を感じてなかったんじゃないかって思うこともあるんですけど......それでも、ほんまにありがたかったですね」

 最後は笑いも交えながら語ったが、そこからは教員免許を取得するため、母校の大阪体育大に聴講生として通い、勉強に明け暮れた。それまでの人生は、ずっと野球一色。就職も野球を通じて決まったものだった。

「まったく勉強は得意じゃなかったので、かなり大変は大変でした」と苦笑いを浮かべたが、やがて教員免許を取得し、採用試験にも合格。赴任先は、岸和田市にある府立・久米田高校に決まった。33歳で指導者としての人生がスタートし、やがて野球部の監督を任されることとなった。

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