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【高校野球】春の大阪大会で公立校唯一のベスト8 堺東の快進撃はいかにして起きたのか? (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

「大会の記憶は、ほんとに最後の夏しか残っていないんです。大阪では元木(大介)らが同級生で、上宮が注目されていた年(1989年)ですね。僕らは、その翌年の90年に中村紀洋が活躍して、公立校として夏の甲子園に出た渋谷高校に負けて終わりました(4回戦)。入学当初は同級生が120人いたんですが、どんどん辞めていって、最後は30人。とにかく、練習、練習で......しんどかった記憶しか残ってないですね」

 不完全燃焼だった高校時代を終え、進学した大阪体育大で一気に頭角を現した。2年生からセンターのポジションをつかみ、俊足のスイッチヒッターとして阪神大学リーグでベストナインを4度受賞。自慢の足を生かして盗塁も次々と決めた一方、打撃では当時のリーグ記録となる通算10本塁打をマークした。

 さらに守備では、目を引く強肩も武器となり、4年生の時にはプロ注目の選手として新聞や雑誌で取り上げられる存在になっていたという。

 しかし、本人も望んでいたプロからの指名はなく、社会人野球の名門・三菱自動車川崎(神奈川県)へ進んだ。プロ入りの夢を持ち続けたまま社会人生活をスタートさせたが、3年、4年と時が過ぎるうちに、社会人野球で自分の野球人生をまっとうしようと目標を切り替えることになる。そんな矢先、母が病に倒れ、余命半年の宣告を受けた。人生の大きなターニングポイントとなった。

「野球を始めてから母親にはずっと支えてもらってばかりだったので、最後に恩返しをしたい、そばについていたい、という気持ちになって」

 社会人5年目で現役を引退し、会社も辞めて大阪へ戻った。振り返れば、ここから指導者への道がつながっていったことを思うと、あれは母の導きだったのか......と、のちにそう感じることもあるという。

【33歳で指導者人生がスタート】

 やがて母は亡くなり、そこからはOA機器販売の営業マンとして、幼い子どもが2人いる家族のために働いた。しばらくは野球から離れた生活が続いたが、やがて高校野球の現場に立っていた大学時代の同級生や先輩たちから、少しずつ声がかかり始めた。

「空いている時に手伝ってくれへんか」

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