【高校野球】春の大阪大会で公立校唯一のベスト8 堺東の快進撃はいかにして起きたのか? (2ページ目)
ミーティングが終わったところで、春の勝ち上がりについて鈴木に話を向けると、「野球以外のことを一生懸命やった結果やないですか」と短く返し、こう続けた。
「ベスト8に入ったからといって、特別なことをやったとは思っていません。あいつらは『力がなくてもベスト8に行けた』って、すごく喜んだと思うんですけど、野球でも野球以外でも、やるべきことをちゃんとやっていれば勝負はできるんですよ。特に高校野球はね」
あらためて近年の堺東の戦績を見ると、大阪桐蔭を相手に終盤まで粘り2対4で惜しくも敗れた試合(2021年春)や、近大附属に1点差で敗れた試合(2023年春)など、印象的な戦いが目に留まる。
この日は鈴木の言う「野球以外」のことについてじっくり尋ねる時間はなかったが、大会後、堺市の高台にあるグラウンドを訪ね、いまだ多くがナゾに包まれている指揮官とチームに迫った。
【挫折と不完全燃焼の高校時代】
試合後の厳しい雰囲気とは一変、人懐っこい笑顔で迎えてくれた鈴木は「僕のことなんか誰も知らんでしょう。自分のことを話すこともないですし、生徒たちも僕のことなんか知らんと思いますよ」と笑った。たしかに春を勝ち上がるなかで、他校の関係者に"堺東の監督"について何度か尋ねたことがあったが、曖昧な反応が続いた。そこで不勉強を詫びながらプロフィールから確認させてもらうと、ここで思わぬ発見が続いた。
1971年、大阪生まれの53歳。少年時代は少々やんちゃな野球小僧で、父に連れられては甲子園へ阪神の応援に通ったという。浪商の付属中学から大体大浪商へ進学。当時、校舎が茨木市から泉北の熊取市へ移転する時期で、「新生・浪商野球部で甲子園へ」という呼びかけに胸を躍らせ、門をくぐった。
ところが先輩もおらず、すぐに大会に出場できるだろうという思惑は外れた。鈴木の記憶によれば、2年の途中までチームは公式戦に出場することができなかった。茨木にも野球部が残っており、同一校から2チームが出場する形になるため、高野連からの許可が下りなかったのだ。結果、来る日も来る日も、ただひたすら練習に明け暮れる日々が続いた。
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