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16年ぶりに活動再開の名門・日産自動車野球部 公立大出身の無名左腕・友野聡太の軌跡

  • 高木遊●文 text by Takagi Yu

 かつて社会人野球の最高峰である都市対抗野球で2度優勝を果たした日産自動車が、15年の休部を経て今年復活を果たした。2月17日には神奈川県横須賀市の追浜工場で新体制発表記者会見が行なわれ、活動再開1期生となる22名もお披露目された。

 実績のある選手から経験の少ない選手までさまざまだが、そのなかで異色の経歴を持つのが左腕の友野聡太だ。

16年ぶりに始動する日産自動車に入部した友野聡太 photo by Takagi Yu16年ぶりに始動する日産自動車に入部した友野聡太 photo by Takagi Yuこの記事に関連する写真を見る

【練習メニューは自ら作成】

 友野は神奈川大学2部リーグに所属する部員22人(2024年度)の横浜市立大出身で、横浜市鶴見区で生まれ育った生粋の"ハマっ子"だ。

 寺尾中では軟式野球部に所属するも「左投手が3人いるなかのひとり」で、県立横浜平沼高時代は「最高で県3回戦、球速は130キロ出るか出ないか」という、特に目立つ存在ではなかった。

 だが、横浜市立大の臼杵大輔監督は「体が大きく、いいフォームで投げている。社会人野球でもプレーできる選手だと思いました」と素質を見抜き、声をかけた。そして友野は受験勉強に励み、一般受験で合格して入部を果たした。

 友野にとって大きかったのは、横浜市立大の環境が合っていたことだ。

「やらされるのではなく、自分で考えて練習するスタイルで、投手も各自の判断に任されていました。だから練習メニューは自分でつくっていました」

 臼杵監督が自営業を営んでいるため、指導するのは主に土日のみと、学生主体の練習が圧倒的に多かった。また、部員数が少なかったこともあり、下級生の頃から多くの登板機会が与えられた。そのなかで試行錯誤し、自らの成長方法を確立していった。友野が振り返る。

「最初はSNSを活用して情報を集め、いろいろと試しました。しかし、うまくいかないことのほうが多く、体系的な知識にはなりませんでした。でも3年生になってから、SNSで見つけた岩松知毅さんの指導を受けるようになりました。ひとりの指導者にしっかり学ぶことで、より精度の高い練習ができるようになりました」

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著者プロフィール

  • 高木 遊

    高木 遊 (たかぎ・ゆう)

    1988年生まれ、東京都出身。大学卒業後にライター活動を開始し、学童・中学・高校・大学・社会人・女子から世代別の侍ジャパン、侍ジャパントップチームまでプロアマ問わず幅広く野球を中心に取材。書籍『東農大オホーツク流プロ野球選手の育て方〜氷点下20℃の北の最果てから16人がNPBへ〜』(樋越勉著・日本文芸社)『レミたんのポジティブ思考"逃げられない"な"楽しめ"ばいい!』(土井レミイ杏利著・日本文芸社)『野球で人生は変えられる〜明秀日立・金沢成奉監督の指導論(金沢成奉著・日本文芸社)では、編集・構成を担当している。

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