【夏の甲子園】強豪復活を託された鶴岡東の佐藤俊監督 負け続けるなかで得られた「気づき」 (2ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro

【「その他大勢」でくすぶる日々】

 佐藤が入学した立正大学は、強豪ひしめく東都大学リーグの二部で戦っていた。そのチームで佐藤は活躍の場を得られなかった。

「ずっと裏方でした。80人から100人の部員がいて、実力に応じてA班、B班、C班に分けられていたのですが、私はC班にも入れなかった。同じ境遇の仲間と、よく『俺たちはZ班だな』と言い合っていました」

 野球部の練習も寮生活も厳しかった。ある日のこと、夜中に寮に戻った監督が上級生のルール違反を発見。部員全員が叩き起こされた。

 その時、上級生に代わって学生コーチの役目を任されたのが佐藤だった。

「事件があったのは、3年生になる前の冬でした。監督に『佐藤がやれ!』と言われて、春からは私が何でもやる感じになっちゃったんです」

 のちに甲子園監督になる佐藤の、"指導者修行"の始まりだった。

「腰が痛かったこともあって、正直なところ、自分が"Z班"にいることに疲れていました。『これで自分の生きる道が見つかったかな』という感じでした」

【矢面に立って叱られる日々で得たもの】

「その他大勢」に甘んじていた佐藤にかすかな光が差したが、学生コーチは地味な仕事の連続だった。

「とにかく一生懸命、練習の準備と片づけに取り組みました。監督が何を考えているのかを気にしながら、先輩たちにも気を遣い、後輩たちの動向もしっかりチェックして......」

 監督は特に佐藤への当たりがきつく、矢面に立たされることも多かった。当時は「なんで自分だけ」という思いが強かったが、他人のミスをかぶることで気づくこともあった。

「言ってもらわないと、気づかないこともあります。監督には感謝しています。ノックをすれば『ヘタだ』と怒られ、グラウンドや寮が汚いと叱られましたけどね」

 佐藤の1学年下には、のちに埼玉西武ライオンズでプロ通算182勝を挙げる西口文也がいた。

「ランナーコーチとしてリーグ戦を戦いました。4年の秋に二部で優勝して、入替戦で勝って1部に昇格することができました」

 恩師に命じられたとおりに教職課程も終えたが、4年生の11月に知り合いを通じて企業の面接試験を受け、内定を取りつけた。そんな事情を知ってか知らずか、12月になって恩師から連絡が入った。「卒業したら、山形に帰ってこい」と。しかし佐藤は、その誘いを固辞する。

 そうして、東京の企業でサラリーマン生活を謳歌していた佐藤に再び連絡が入ったのは、翌年のことだ。

「私が大学2年の時に田中監督が大病を患い、その影響もあってか、鶴商学園はなかなか勝てなくなっていた。田中監督が杖をつきながら東京に来られて、『東京駅まで迎えに来てくれ』と言うんです」

 恩師の顔を見た瞬間に、佐藤は山形に帰ることを決めた。

「自分に何ができるのかはわかりませんでしたが、この方のために帰ろうと思いました」

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