甲子園で苦戦つづく北海道勢 道産子球児たちの道外流出はなぜ止まらない? (2ページ目)
なぜ、彼らは道外の学校を選んだのか。京都国際の高岸は父が駒大岩見沢でプレーしていたが、小学校の卒業文集に「関西の高校に行って甲子園に出て活躍します!」と書いていたほど、道外志向が強かった。
「小さい頃から甲子園に見に来ていたんですけど、大阪桐蔭とか智辯和歌山とか、関西の高校は強いイメージがありました。そこから、関西の強豪校で野球をしたいなと。桐蔭とか智辯みたいな強いチームを倒して日本一になりたいという気持ちがあったので、京都国際に入りました。それと北海道は、冬はグラウンドが使えないので、1年間グラウンドを使える環境でやりたかったのもあります」
また斎藤の兄(優斗)は、地元・北海道の北照の3番打者として19年夏の甲子園に出場しているが、兄のいた北照への進学は「まったく考えなかった」と言う。
「実力には自信があったので、甲子園で優勝したいとか、上でやりたいという気持ちがありました。甲子園優勝となると、道外の学校のほうが近い。大阪桐蔭に行きたかったんですけど、声がかからなかったので、熱心に誘ってもらった花咲徳栄に決めました」
目標は甲子園に出ることではなく、日本一になること。そのためには、北海道の学校よりも道外に出たほうがいいという感覚のようだ。ある中学の指導者はこう語る。
「正直言って、北海道の学校は甲子園に行っても勝てないですよね。私のチームにも道内の指導者の方がよく来られますが、『甲子園で勝つ』とか『甲子園で優勝する』という言葉は聞いたことがありません。その点、内地から来られる高校の指導者の方は、甲子園経験が豊富なこともあるのか、甲子園の話をよくされます」
駒大苫小牧で一時代を築いた香田監督は、甲子園に出ていない時から日本一と口にしていた。選手たちとあいさつをする時も、指一本を立てるナンバーワンポーズをしながら「こんにちは」と言っていたほどだ。
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