退路を断ち、23歳で独立リーグへ 最速158キロの速球を武器に廣澤優はドラフト上位指名を目指す (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

 ここで廣澤はさらなる壁に直面する。アマチュア最高峰のレベルは想像以上に高かったのだ。

 JFE東日本は廣澤が入社する前年に都市対抗野球大会で優勝している。元DeNA投手の須田幸太(引退)のように、ひと回り年上で技術力の高い存在もいた。

「須田さんなんてピッチングのことをすべて知っていて、人に合わせて的確にアドバイスをくださっていました。ここまで年上の方と野球をやる経験もなかったですし、年下の後輩が入ってこなかったので、自分は最後まで最年少でしたね」

 入社して2年連続でチームは都市対抗に出場したが、廣澤はベンチにも入れなかった。東京ドームのブルペン裏でモニターを眺めることしかできなかった。

「4年間で都市対抗も日本選手権もベンチに入れませんでした。すべて勉強ととらえて、どうやって周りに追いつくかを考えていました」

 大事な試合で使われることは皆無に等しかったが、停滞していたわけではない。フィジカル強化によって、球速は最速158キロを計測している。だが、社会人で公式戦マウンドを託されるには、廣澤には足りなかった部分がある。

「社会人で4年間やってみて感じたのは、野手に信頼されたピッチャーがエースになるんだということです。マウンドで落ち着いて、安心感のある人がエースなんだと知りました」

【監督からも独立リーグ挑戦を提案】

 4年目の半ばにさしかかる頃、廣澤は独立リーグでのプレーを考え始める。オープン戦で不安定な結果しか残せなかった自分が、公式戦で起用されないのも納得していた。それでも、廣澤がNPBに行くにはマウンドに立ってアピールする必要があった。

 そんな折、廣澤はJFE東日本の落合成紀監督から思いがけない提案を受ける。落合監督からも独立リーグへの挑戦を提案されたのだ。「大谷みたいに独立リーグからNPBへ行ってこい」と。

 大谷とは、廣澤が入社1年目に一緒にプレーした大谷輝龍(ひかる/現・ロッテ)のことだ。廣澤は大谷がドラフト上位指名を受ける投手になるなど、想像もできなかったという。

「身体能力は誰も寄せつけないくらい高かったんですけど、野球になると周りより落ちる感じはありました」

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