大阪桐蔭・前田悠伍がドラフト直前に胸中を吐露「夏の大会に負け、自分に対する評価も下がるだけ下がっただろうと...」
大阪桐蔭・前田悠伍インタビュー(後編)
2年秋に新チームとなりキャプテンに任命された前田悠伍(大阪桐蔭)だったが、そこからは苦難の連続だった。周囲の期待とそれに応えられないジレンマ。それでも前田は自分自身を信じ、懸命に戦った。そしてようやくたどりついたドラフト。上位指名が確実視されているなか、プロへの熱き想いを語った。
最後の夏は大阪大会決勝で履正社に敗れた大阪桐蔭・前田悠伍 photo by Kyodo Newsこの記事に関連する写真を見る
【この1年間はしんどかった】
── 2年秋の大会を終えた頃、周囲から厳しい声がありましたが、そういうのは耳に入っていましたか。
前田 野球部は携帯電話が禁止で、ネットの情報やSNSも見られないので、直接そういうコメントを見たり、聞いたりすることはなかったです。でも自分自身、「こんなピッチングじゃ、いろいろ言われるだろうな」というのはありました。だから、なんとか見返したいと、そこはメチャクチャありました。
── ただ、センバツベスト4から夏へ向かうなか、なかなか状態が上がっていきませんでした。新チームになってからワールドカップまでの1年間はかなりしんどかったのでは?
前田 キャプテンとしてチームのことを考えないといけないのもありましたし、自分自身も思うようなピッチングがなかなかできなくて......たしかに、ちょっとしんどかったですね。
── センバツ後の春の大阪大会、近畿大会はベンチから外れ、夏に向けてトレーニングに励んでいる最中、左ヒジに違和感が出ました。そこから投げ込みができず、調整も思うように進まなかった。
前田 少ししてからキャチボールはできるようになったので、投げ込みができないという感じはなかったです。それにその期間、ピッチングにつながるトレーニングも今まで以上に集中してできましたし、思うように調整できなかったというのはなかったです。
── 夏に向けた仕上げの時期、ブルペンでしっかり投げたいというのはなかったですか。
前田 自分の場合、キャッチボールの感覚がよければ、ブルペンに入らなくても「このくらいの感じで投げられるだろう」というのがわかるんです。だから、キャッチャーを座らせて投げないと心配とか、そういう感覚がないんです。
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プロフィール
谷上史朗 (たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。