井端弘和も逸材と認めたドラフト候補 山梨学院大・宮崎一樹の反骨心 中高6年間控えから覚醒 (2ページ目)
だがその自信は、前述したように入学直後に木っ端微塵に打ち砕かれた。上級生だけでなく、同級生を見渡しても「(能力的に)下から数えたほうが早かった。苦しかったですね」と振り返る。
それでも野球を辞めるという選択肢は考えなかった。学校から誘われての入学ではなかったため、特待生ではなく、学費や部費、寮費などすべて満額を支払っていたため、「親のためにも」という思いがあったからだ。それに加え、自身の性格も影響しているという。
「めちゃくちゃ負けず嫌いなんです。(試合に)出られないからこそ頑張ったし、1年の冬はバットを振りまくりました」
ベンチ入りしたのは2年秋になってからで、結局、高校の3年間でレギュラーを獲得することはできなかった。
一方で、宮崎を評価してくれる人物もいた。それが部長として横浜高校の黄金期を支えた小倉清一郎氏だ。当時、山梨学院の臨時コーチを務めていた小倉氏は、宮崎の身体能力の高さを買って、吉田洸二監督に起用を進言した。
その結果、宮崎は甲子園では春夏ともに初戦でスタメンでの出場を果たし、夏にいたっては県大会で出場なしから抜擢された。それでも宮崎にとっては不完全燃焼だった。春夏合わせて甲子園通算8打数3安打とまずまずの結果を残したが、最後は悔し涙も出なかった。
【大学進学後に状況が一変】
そんな宮崎が運命に導かれたのは大学進学時だ。当初は「もっとできると思っていたのですが、野球でメシが食えるとは思っていませんでした」と振り返ったように、硬式野球からは引退し、準硬式野球(硬式球と中身はほぼ同じだが外側が軟式球と同じ天然ゴムで覆われている球を使用)でのスポーツ推薦制度がある中央大への入学を目指した。
練習にも参加したが、推薦の要件は「レギュラーであること」となっており、宮崎はそれに該当せず、中央大への進学を断念。系列校の山梨学院大に内部進学することになった。
図らずも、結果的にこれが功を奏することになる。須田喜照監督は「第一印象はとくにないんですよね」と苦笑いしながらも、「キャッチボールやノックを見ていたら肩は強いし、バッティングで強いスイングをする」とその能力に気づき始め、1年秋からレギュラーに抜擢した。
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