履正社にセンバツ敗退後に上がっていた心配の声 どん底状態からいかにして大阪桐蔭を倒し、甲子園に出場できたのか (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 大会前に取材した際、張り詰めた空気のなかで聞いた選手たちの言葉、自信に満ちた顔を思い出す。

「初戦が(大阪)桐蔭でもいいです。甲子園に行くためには、大阪で一番にならないといけないので、決勝で当たっても初戦で当たっても変わらないので」(森澤)

「桐蔭との対戦があれば、絶対に先発で投げたい。今なら抑えられるイメージがあります。理想は1対0で勝つことです」(福田)

 強がりでも、とりあえず掲げる目標でもない。森澤や福田の言葉からは「やるべきことはやった。あとは戦ってどうなるか」といった潔さのようなものが伝わってきた。

【全国制覇した4年前に似た雰囲気】

 決勝の大阪桐蔭戦、試合前に行なわれたシートノックの景色も試合結果と重なり、記憶に残っている。先にノックを行なった大阪桐蔭は、コーチの橋本翔太郎が1球ごとに声を飛ばし、時に選手をあおり、大いに盛り上げた。

 対して履正社は多田が淡々とノックを打ち、選手たちも一つひとつの動きを確認するように丁寧に捕球。いつもなら大阪桐蔭の勢いや活気が場の空気をつかむところ、この日感じたのは、履正社サイドの自信だった。

 では宿敵に勝利し、ここからどんな展開が待っているのか。頭を巡らすと、4年前に日本一に輝いたチームの軌跡が重なってくる。3番に2年生の小深田大地(現・DeNA)、4番に井上広大(現・阪神)が並び、最後は記録的猛打で頂点に立った戦いだ。

 あの時のチームもセンバツ大会で星稜の奥川恭伸(現・ヤクルト)に3安打、17三振に抑え込まれ初戦敗退。つづく春の大阪大会も、大商大高の上田大河(現・大商大)に抑え込まれ準々決勝敗退。完全に自信を失った井上は、のちに当時の心境を「大好きだった野球を初めてやめたくなった」と語るほどだった。

 そこから当時の岡田龍生監督(現・東洋大姫路監督)は「対応力を上げないと全国では勝てない」と繰り返し、実践的な練習をひたすら繰り返した。打撃練習時から、選手には奥川の球をイメージさせ、低めの変化球の見極めなど、常に課題を与えることで対応力を磨いた。

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