島を出た「奄美の神童」と島に残った「大野稼頭央」の数奇な野球人生 「甲子園で、島のみんなと戦いたかった」 (2ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro
  • photo by Kikuchi Takahiro,Ohtomo Yoshiyuki

 学童野球は古仁屋キャノンボールに所属し、その名を島中にとどろかせる。そんな求に敵愾心をむき出しにして挑んでくる小柄なサウスポーがいた。大野である。

「稼頭央は本当に体が小さくて、パッと見は全然すごそうに見えないんです。でも、いざ試合になるとものすごく腕を振ってきて、ボールも速くて、気持ちが強い。普段はやさしくてかわいいヤツなんですけど、マウンドでは別人でした」

 大野や西田といったライバルとしのぎを削った求だったが、小学校卒業と同時に早くも島を出ることを決意する。きっかけは、小学5年時に出場した全国大会・高野山旗全国学童軟式野球大会だった。

「初めて鹿児島以外のチームと戦って、『県の外ってこんなに違うんだ』と興味を持ち始めました」

 母の康子さんからは「奄美もいいけど、上で野球をやりたいなら都会にはもっとすごい人がいっぱいいるよ」と言われた。康子さんはもともと神奈川県川崎市出身。さらに康子さんの弟は、平野恵一さん。オリックスや阪神で内野手として活躍した、元プロ野球選手である。

「叔父さんは身長が大きくないのにプロで活躍していて、すごいなと。自分もそういう舞台に行きたいと思いました」

【中学3年時にシニア日本代表】

 小学校を卒業すると、求は康子さんとともに川崎へと移住する。父の建臣さんは、日中は理容師、夜間は漁師として島で働いており、奄美から息子の活躍を応援することになった。

 中学入学直後の自己紹介で「奄美から川崎に来ました。プロ野球選手になります」と宣言した求だが、クラスメイトからの反応は薄かった。プロ野球選手の前に「奄美ってどこ?」という雰囲気になっていたからだ。

「あぁ、奄美って全然知られてないんだなぁと思いました。沖縄ですら日本地図に載ってるのに、奄美は省略されて載ってないじゃないですか」

 濁った川を見るたびに、奄美の美しい海が恋しくなった。人ごみも苦手で、都会の生活に戸惑いは隠せなかった。

 島では「わん」という一人称を使っていたが、川崎では通用しないため「自分」に直した。方言を気にするあまり、「日本語が不自由になってしまいました」と求は笑う。そんな不自由を強いられても、どうしてもプロ野球選手になりたかった。

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