聖光学院を「福島の王者」へと押し上げた2つの大敗。初甲子園の惨敗に指揮官は「誰か俺を大阪の海に沈めてくれ」

  • 田口元義●文・写真 text & photo by Taguchi Genki

「あの大敗は何年か引きずって生徒らに話したりはしたけど、ここ何年は一切ないね。苦しみとかも伝えられることがあっかもしんないし、あれがなかったら今の聖光学院はないんだけど、あの話をしても意味をなさないと思ってるから」

 懐かしむわけではない。かといって、記憶の奥底に蓋をしているわけでもない。聖光学院(福島)の斎藤智也監督が発した回顧には、そんな色彩が帯びているようだった。

聖光学院を全国屈指の強豪校へと導いた斎藤智也監督聖光学院を全国屈指の強豪校へと導いた斎藤智也監督この記事に関連する写真を見る 聖光学院の「今」。それは「強豪校」というれっきとしたブランドだ。春夏合わせて甲子園に22回出場し24勝を挙げ、5度のベスト8。夏は2019年まで戦後最多記録の13年連続出場を果たした。

 福島県と言えば聖光学院──そんなイメージがすっかり定着した強豪に刻まれた痛恨。甲子園でのすべての試合で指揮を執った斎藤が語る「あの大敗」とは、聖光学院が甲子園初出場を遂げた2001年の夏を指している。

劇的勝利で掴んだ初甲子園

 斎藤が監督に就任して2年も満たないこの夏。聖光学院は福島大会の決勝で延長11回表に4点を奪われながら、その裏に5点を挙げる劇的な幕切れで夢舞台への切符を掴んだ。

「甲子園に行けたら死んでもいい」

 監督となってからそんな想いを馳せていた悲願が、達成されたのである。

 斎藤が監督としてチームに植えつけた大きなメンタルに、「不動心」がある。大きく言えば「何事にも動じない強靭な精神力」であり、「自分の思いどおりに行かなくても、現実を受け入れ精進すればいつか必ず報われる」などさまざまな意味合いが込められている。県大会の決勝戦が物語るように、この精神が甲子園出場を実現させたといってもいい。

 しかしこの時の斎藤は、未踏の山を越えた達成感により、少し浮かれていた。

 甲子園の初戦の相手は大分県の明豊。同じく初出場の高校だ。相手の情報が皆無に等しくても、メディアからゲームプランを聞かれれば「勝つとしたら3対2ですかね」と、したり顔で分析を展開する自分がいた。

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