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魔球を操った「甲子園優勝投手」日大三・吉永健太朗の今。みどりの窓口に勤務、声をかけられたのは「この2年でひとりだけでした」 (2ページ目)

  • 石塚 隆●取材・文 text by Ishizuka Takashi
  • 大友良行●写真 photo by Ohtomo yoshiyuki

日大三高のエースとして2011年夏の甲子園優勝を果たした吉永さん日大三高のエースとして2011年夏の甲子園優勝を果たした吉永さんこの記事に関連する写真を見る

代名詞・シンカーの誕生秘話

 東京都日野市出身、野球を始めたのは小学4年の時。両親は実業団でバドミントンをプレーしていたスポーツ一家。父親が吉永さんの肩の強さに気がつき、好きだった野球を勧めたという。中学時代はピッチャー兼野手として調布リトルシニアに所属し、その後、日大三高に進学した。

「三高時代、忘れられない思い出は?」と尋ねると、まず甲子園での優勝よりも、高校1年の時に経験した三高名物「冬の強化合宿」を挙げた。

「噂には聞いていましたが、かなりきつくて精神的にも追い込まれました。ただマックス130キロくらいだったストレートが、合宿を終えたあとの公式戦で143キロになっていたんです。一気に成長できたという実感もあり、冬合宿はすごく強く心に残っていますね」

 また吉永さんといえば、前述した代名詞であるシンカーがあるが、投げるきっかけとなったのは2学年先輩の関谷亮太さん(元ロッテ)の影響だった。

「もともと変化球はカーブとスライダーしかなく、チェンジアップやシュートといった逆に曲がる変化球がほしいなと思っていた時に、先輩が投げているのを見て、見よう見まねで投げ始めたんです。(関谷)先輩がいなかったらシンカーという選択はなかったと思います。ただ1年の秋から取り組んだので、夏に引退してしまった先輩から手ほどきを受けたことはあまりなくて、自分で模索しながら習得していった感じですね」

 独学ゆえのことなのか、吉永さんのシンカーはおもしろい軌道を描いた。

 浮いて、反れて、落ちるーー。

 球速は120キロ前後、カーブのように浮き上がり、またチェンジアップのように抜けて落ちる不思議なボールだった。

「最初は右斜め下に曲げたいという感覚だったのですが、最初はキャッチャーに届かなくて高めに投げるようにしたり、また意図して抜けるようにしたわけでもなく、投げながらキャッチャーやバッターに感想を聞きながらつくり上げていった感じなんです。左バッターに有効になればいいなという程度でしたが、結果的に"これがなければ"というボールになりました」

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