昭和、平成、令和...親子三代で甲子園出場を果たした「智辯和歌山・高嶋家物語」

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Kyodo News

 ドラフト上位候補の小園健太擁する市和歌山と智辯和歌山の対決で注目を集めた和歌山大会決勝。智辯和歌山の3点リードで迎えた9回表二死、三塁線への強烈な打球を横っ飛びで捕球し、一塁へ送球してゲームを締めくくったのは高嶋奨哉だった。この瞬間、智辯和歌山の25回目の夏出場と、高嶋家にとって親子三代の甲子園出場が決まった。

「自分が選手の時はとにかく必死。監督として息子と甲子園に出た時も、智辯和歌山はまだ甲子園で勝ったことがなかったのでまた必死。それに比べて今は外から見させてもらっているから気はラクやけど、今回は甲子園に出てほしい思いが強かったからホッとしました」

 あらためて親子三代での甲子園出場について語ったのは、高嶋家の祖父・仁(現・智辯和歌山名誉監督)だ。

智辯和歌山・高嶋奨哉(写真右)と同校野球部の名誉監督であり祖父の仁智辯和歌山・高嶋奨哉(写真右)と同校野球部の名誉監督であり祖父の仁この記事に関連する写真を見る 昨年はコロナ禍の影響で夏の甲子園大会は中止。代わりに開催された交流試合で孫の奨哉は甲子園の土を踏んだが、秋は近畿大会ベスト8に進出するもセンバツ出場を逃した。それだけに、今年の夏こその思いがチームにみなぎっていた。

 ちなみに、市和歌山との決勝で6回に先制打を放ったのも奨哉だった。孫の攻守にわたる活躍での甲子園出場に、仁の喜びもひとしおだった。

 長崎県五島列島にある福江島出身の仁は、海星高校の選手として1963、64年の夏に甲子園出場を果たしている。

 海星は仁の中学1年時に甲子園初出場。中学3年時には春夏連続出場と一気に力をつけ、入学時の新入部員は120人ほどいた。人数減らしのために壮絶なシゴキが連日続いたが、「負けるか! クソったれ!」と耐え、2年時にはレギュラーの座をつかんだ。

 武器は積極的な打撃と足。6番・レフトで戦った63年の夏に長崎を制し甲子園出場(当時は一県一校ではなく、佐賀の代表校と出場権を争う西九州大会が行なわれていたが、この年は記念大会のため一県一校の出場となった)。仁は、この時に味わった感動がのちの野球人生を決定づけたと語っている。

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