広島・大道温貴の目の前で快挙。北東北大学リーグに注目の本格派右腕がいる
ヒット性の当たりがことごとく味方の好守で救われる。試合序盤につくられた流れで、記録達成の予感はあった。
2020年9月20日、岩手県遠野運動公園野球場。ノースアジア大学の中村彪(ひょう)は、八戸学院大相手に少ない球数で序盤からリズムをつくると、7回を終えた時点で78球。スコアボードに記された相手チームのヒット数は0。スタンドがにわかにざわめき始めた。
「自分でも意識しないようにしてたんですけど、7回が終わって(ノーヒット・ノーラン達成が)チラつき始めて......。とりあえず先頭打者を抑えようと思って、マウンドに上がりました」
昨年秋のリーグ戦でノーヒット・ノーランを達成したノースアジア大学の中村彪 ゲーム中盤、相手マウンドには広島からドラフト3位で指名された大道温貴が上がった。そんなプレッシャーにも動じることなく、中村は自身の投球を貫いた。ノースアジア大学の阿部康平コーチは次のように語る。
「大道くんが登板してから、より力を入れて投げていましたね。9回を投げ切れるように、自分で計算しながら投げられるようになったと思います」
そのコーチが見守る前で、中村は最後の打者をセカンドゴロに打ち取ると、北東北大学野球連盟の歴史に名を刻んだ。
中村が生まれ育ったのは岩手県九戸郡野田村。緩やかな海岸線がつづく十府ヶ浦海岸は、平安時代の和歌に詠まれるほど、景勝地として知られている。そんな美しい村も2011年3月11日の東日本大震災に襲われた。黒い波が集落に流れ込み、村を半壊させた。当時11歳だった中村は、避難した高台の上から呆然とその様子を眺めていた。地元の少年野球チームに入団して、まだ1年も経っていない頃だった。
「震災に遭った時はしばらく避難所で生活していました。少し経ってから家には帰れたんですけど、野球はしばらくできない状態が続いて......」
避難所では、母と中学生だった兄、そして幼かった弟の家族4人が寒さに耐えながらわずかなスペースで過ごした。ひと段落しても、家族の生活を支えるため、母は勤めで家を空ける日が多くなった。そんな母を少しでも早く楽にさせたいと、中村は手に職をつけるため地元の久慈工業高校への進学を決断する。
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