「辞めるつもりだった」京都国際の監督が甲子園へ。教え魔から指導スタイルを変えた (2ページ目)

  • 沢井史●文 text by Sawai Fumi
  • photo by Sankei Visual

 そうは語るが、監督に就任した2008年春に部員13人ながら京都府大会3位となり、近畿大会に出場。初戦で、その年の夏に全国制覇を成し遂げる大阪桐蔭と対戦し、浅村栄斗(現・楽天)を筆頭にハイレベルなチームを目の当たりにした。

 秋になると3年生4人が引退して部員は9人となったが、春の近畿大会に出場したことで翌年、1年生が大量に入部した。

「初めは前監督が連れてきた子が卒業したら自分は辞めるつもりでした。でも、1年生が多く来てくれたし、自分を慕って来てくれた子もいたので......辞めるに辞められなくなったんです」

 ヤンチャな選手を預かっていた頃は手取り足取り教え、何かあれば声を張り上げて指導する、いわゆる"教え魔"だったという。だが選手の特性が変わっていくなかで、徐々に指導スタイルも変化していった。

「昔は軍隊のようなスパルタ指導が当たり前みたいな雰囲気がありましたよね。でも、それでは人は育たない。子どもらも対戦相手と勝負するより、僕と勝負しているような気がして......。厳しくするだけでは指導者の自己満足のように思えてきたんです。今の子は高い志を持って入学してくるので、そんなにこちらが言わなくても自分たちで考えて、競争するようになる。そうした生徒が入ってきてからチームは変わっていったのかもしれません」

 監督自身、じつは甲子園に固執した指導は行なっていない。監督というポジションにいるという感覚はなく、あくまで選手たちのサポーターだと自負している。

「野球をやるのは子どもたち。基本的には自分たちで考えなさいというスタンスですが、悩んでいる子に対してサポートはします。子どもらが甲子園に行きたいと頑張っているので、『これくらいのレベルに達しないとアカンよ』とかアドバイスはします」

 グラウンドは両翼とも70m以下と決して広くなく、形も長方形と少しいびつだ。限られたスペースのなかで取り組んだのが、守備重視の野球だった。内野の連係プレーやわざと落球してからの送球など、練習のバリエーションも豊富だ。

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