佐々木朗希の登板回避にあらためて思い出す大谷翔平を育てた監督の言葉 (3ページ目)
結果的に、大谷は甲子園の舞台を2度経験したが、ピッチャーとして勝利をつかむことはなかった。スポーツの世界に"たら・れば"が禁物であることは百も承知しているが、もし大谷に1年時から投手として経験を積ませていれば、また違ったストーリーになっていたかもしれない。
経験値を高めた大谷が、高校野球における"勝てる投手"になっていた可能性は大いにある。さらに言えば、それこそがチームにとって最善であり、佐々木監督の「求めるもの」だったかもしれない。ただ、大谷と過ごした3年間を振り返り、佐々木監督はこう言うのだ。
「大谷の将来を犠牲にすることだけは、絶対にあってはならないと思っていた」
たとえば2011年の秋の東北大会でも、その思いは貫かれた。翌年のセンバツ出場がかかった大会。勝てばセンバツ当確のランプが灯る準決勝でのことだった。光星学院(現・八戸学院光星)を相手に、花巻東は8回表までに2点をリードしていた。だが、最後は逆転されて涙をのんだ。ちなみに、大谷はケガの影響もあって、ピッチングを封印していた。
結局は、東北大会を制した光星学院が明治神宮大会でも優勝し、東北地区に"神宮枠"が与えられ、花巻東はセンバツに出場することになるのだが、東北大会準決勝の采配に対して、佐々木監督は周囲から厳しい言葉を浴びた。
「試合終盤に大谷が投げれば勝てるかもしれないというゲーム展開。敗れた直後に周りの方から『なんで大谷を投げさせなかったのか』と言われることがありました。でも、私は最後まで彼をマウンドに送らなかった。秋の時点ではピッチャーとして使わない。そのことはチームみんなで決めたことでもありましたし、私自身も投げさせてはいけないと思っていました。
本音を言えば、センバツ出場が見えたあの場面で、ピッチャーとして使いたかったという思いは少しあります。あとで聞いた話ですが、大谷自身も投げたかったと......。でも、我慢しました。大谷のゴールはここではない。当時、大谷はまだ2年生でしたし、ここで壊すわけにはいかないと。何度も自分にそう言い聞かせていました」
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