レジェンド社会人・西郷泰之の伝言「死に物狂いで野球をやろう」 (3ページ目)
さいごう・やすゆき/1972年8月30日、東京都生まれ。日本学園高校から三菱自動車川崎(のちの三菱ふそう川崎)に入社。96年のアトランタ五輪で日本代表に選ばれ、銀メダルを獲得。その後も社会人野球屈指の強打者として活躍。08年にチームは休部するが、翌年からHondaに移籍し、同年夏の都市対抗で自身6度目の優勝を果たす。また、都市対抗で最多タイの14本塁打を記録。昨年、現役引退を発表した
―― 15年の都市対抗では2試合に代打で出場しましたが、打席に向かっていく瞬間に大観衆が拍手で沸きました。西郷さんの打席が持つ意味の大きさを感じたシーンでした。
「自分の場合は『都市対抗のためだけに』と言っても過言ではないくらい、そこに懸けてきました。だから、自分の打席で観客のみなさんがバーッと盛り上がって応援してくれるのはすごく嬉しくて、本当にシビれるような気持ちになりました」
―― やはり都市対抗という舞台は特別な想い入れがあるものなのですね。現役生活の25年間で特に印象に残っている場面などはありますか。
「うーん、難しいですね(笑)。でも都市対抗で初めて打席に立ったときのことは、今でもすごく覚えています。三菱川崎へ入社して3年目のことですが、本当に緊張してバットを振れなかった。たしか準々決勝の熊谷組戦で、相手投手はのちにプロ入りした中山雅行さん(元ロッテ)。結果は四球でしたが、『こんなところで野球をやるのか』って思ったら体がバッと固まってしまったんです。まだ経験も浅く、社会人選手たちの力に呑まれたという感じでしたね」
―― そこから20年以上もプレーできたのは何が大きかったのでしょう。
「環境に恵まれたことですね。自分なんか、高卒で入って本当に2~3年で戦力外になるような選手だったと思うんです。でもやはり当時のチーム、当時の先輩方がいい人ばかりで、その人たちが死に物狂いで練習していたんですよね。だから、この人たちに何とか追いつかなきゃいけない、追い越さなきゃいけないという気持ちで練習しました。それが大きな要因じゃないかなと思います」
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