伊東勤は古田敦也を意識せず。
「対野村監督の意識のほうが強かった」

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(41)

【司令塔】西武・伊東勤 前編

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 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。

 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、黄金時代を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ1980年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。

 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。両チームの当事者たちに話を聞く連載21人目。

 第11回のテーマは「司令塔」。「森と野村の代理戦争」と称された西武・伊東勤、ヤクルト・古田敦也のインタビューを連続でお届けしよう。

長らく西武の正捕手を務めた伊東勤 photo by Sankei Visual長らく西武の正捕手を務めた伊東勤 photo by Sankei Visual【「そもそも、負けるという感覚がありませんから」】

――ライオンズとスワローズが激突した1992(平成4)年と、翌1993年の日本シリーズについて、両チームの方々にお話を伺っています。

伊東 ヤクルトとは2年続けて戦ったけど、苦しみながらも最後に勝った1992年のほうがよく覚えていますね。あの頃の西武は「リーグ優勝だけではなく、日本一も当然」という雰囲気だったので、シーズンが始まる前は「日本一になる」ということしか頭になかったです。

――この連載でも、石毛宏典さんは「ペナントレース130試合だけじゃなくて、その後の日本シリーズ7試合を含めて、オレたちは年間137試合戦うという体内時計だった」とおっしゃっていました。

伊東 まさに、石毛さんの言われた通りです。あくまでも、「日本一になる」ことが最終目標で、ペナントレースはその過程に過ぎない。途中でコケるなんてことはまったく考えずに、キャンプの段階から「どうやって日本シリーズを戦うか」を意識していましたから。実際にペナントレースにおいても、「ここが勝負だ」とか、「この3連戦が天王山だ」という試合では、必ず勝っていたというイメージがあります。そもそも、「負ける」という感覚がありませんでしたね。

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