検索

【箱根駅伝 名ランナー列伝】村澤明伸 花の2区で見せた伝説の「17人抜き」とファンの記憶に残る最後の給水 (2ページ目)

  • 酒井政人●取材・文 text by Masato Sakai

【最終学年はケガによりチームの連続出場もストップ】

 10km通過でトラックの自己ベストを大きく上回ったことが自信になり、村澤はトラックでも強さを発揮していく。翌年度は両角速氏が駅伝監督に就任。佐久長聖高時代の恩師とともに「世界」を目指した。

 3年時はトラックの10000mで好走を続けた。兵庫リレーカーニバルで28分00秒78をマーク。日本選手権で2位(28分15秒63)に入り、アジア選手権は日の丸をつけて銅メダルを獲得した。

 しかし、2年時の日本インカレで捻挫した影響もあり、「トラックと駅伝のバランスを取るのが難しくなった」と言う。

 全日本大学駅伝は8区で区間4位。その後、右足首の痛みが再発して、箱根駅伝は2区で区間3位(1時間08分14秒)と本領を発揮できなかった。なおエース区間を制したのは出岐雄大(青学大)で1時間07分26秒だった。

「急ピッチに仕上げたので箱根は厳しいレースになると予想していました。11位で走り出して、出岐に抜かれたときは正直、びっくりしましたね。でも状態を考えれば、なんとかまとめたという感じのレースだったと思います」

 エースの故障が響き、チームは12位でシード権を逃した。その結果、4年時に予想外のドラマを生むことになる。

 4年時は10000mで「ロンドン五輪代表」を本気で狙った。4月の米国・カージナル招待10000mでB標準(28分00秒00)を突破する27分50秒59をマーク。日本選手権に優勝すれば五輪代表を引き寄せることができたが、10位(28分32秒78)に沈んだ。

 村澤は夏に左アキレス腱を痛めて、箱根駅伝予選会を欠場。チームは41年連続出場を逃すことになり、キャプテンとして「責任」を感じたという。

「個人的には『走りたい』という気持ちが強かったんですけど、最終的には両角先生が"決断"してくれました。僕が走れないことで、チームに大きな緊張感を生んでしまったのかもしれません。落選が決まったときは、正直よくわからなかった。これまで箱根駅伝には出場して当たり前のような部分があったので、現実をなかなか受け入れることができなかったんです......」

 自身最後の"箱根駅伝"は関東学連選抜で2区に出場した早川翼の給水係を担当。大歓声を浴びながら3度走ったコースで、最後は裏方として盟友に力水を手渡している。その場面は2013年(第89回)大会の名シーンとなった。

●Profile
村澤明伸(むらさわ・あきのぶ)/1991年3月28日生まれ、長野県出身。佐久長聖高(長野)―東海大―日清食品グループ―SGホールディングス。高校時代からトラック、駅伝で強さを発揮。東海大進学後も着実に成長を遂げていく。箱根駅伝では1年時から3年連続で2区に出走し、区間賞を獲得した2年時の17人抜きをはじめ、通算で32人抜きを果たしている。4年時は夏に痛めたアキレス腱の影響で予選会出場を見送り、チームも落選した。卒業後は実業団に進み、競技を続け、2025年度限りで引退。現在はSGホールディングスのコーチを務める。

【箱根駅伝成績】
2010年(1年)2区2位・1時間08分08秒
2011年(2年)2区1位・1時間06分52秒
2012年(3年)2区3位・1時間08分14秒

著者プロフィール

  • 酒井政人

    酒井政人 (さかい・まさと)

    1977年生まれ、愛知県出身。東農大1年時に出雲駅伝5区、箱根駅伝10区出場。大学卒業後からフリーランスのスポーツライターとして活動。現在は様々なメディアに執筆している。著書に『箱根駅伝は誰のものか』『ナイキシューズ革命 〝厚底〟が世界にかけた魔法』など。

2 / 2

  • Googleで優先するソースとして追加

Googleの「優先ソース」について

キーワード

このページのトップに戻る