【東京世界陸上】落合晃が800m日本記録更新の前にドン底を味わった日「悔しくて1週間ぐらい走れませんでした」 (2ページ目)
【パリ五輪出場が見えていた】
――高校に入って指導者も替わったなかで、高校1年生の6月には高校総体近畿大会で1分50秒19の高校1年生の最高記録を出しました。そのときは世界やパリ五輪を意識していましたか?
落合 パリ五輪を意識し始めたのは高校2年のインターハイ優勝からです。その時は1500mにも出場していたので、800mの決勝は5レース目でした。疲労感もあるなかで勝ちきれて、記録も自己ベストの1分47秒92を出して体を動かせたのは自信になりました。
最初はパリ五輪なんてまったく考えてもいなかったけど、高校の監督に「来年はパリ五輪があるけど、あと3秒くらい(記録が伸びれば)でいけるよ」みたいな感じで言われて。最初はそんなノリと勢いで「やってみるか」みたいな感じでした。
――でも800mの場合、参加標準記録(1分44秒70)がどんどん上がって、日本記録(1分45秒75)を大きく更新しなければ出られない状況でした。そういう状況で五輪出場を目指す意識を持てたのはすごいことだと思います。
落合 ありがとうございます。実際、高校2年のインターハイが終わった時は「よし、やってやろう」と思っていたけど、冬期に入ってからは「本当にこんなんで大丈夫なのかな」と、いろんな悩みを持って走っていました。もう一度「パリ五輪に行けるかもしれない」と思えたのは、3年生の春からいろいろな試合に出ていくなか、5月の静岡国際で自己記録を1秒以上更新する1分46秒54を出せた時です。
――参加標準突破となると日本記録を1秒05上回らなければいけなかったですが、日本記録や1分45秒を壁のように感じなかったですか?
落合 それはまったくなかったですね。日本記録を目指しているだけではパリ五輪に届かないことはわかっていたし、記録を出しにいかないと絶対にダメだと思っていました。1分44秒70に少しでも近づけるようにということしか見ていなかった。だから、実際に日本記録をきっても満足はできませんでした。更新できたのはインターハイでしたけど、やっぱりそれを日本選手権で体現しなければいけなかった。日本選手権前も「もう出せるだろうな」という手応えもあるぐらいの練習が積めていたので、あまり壁には感じてはいなかったです。
――中・長距離は最初にハイペースで入ると、最後に苦しみが待っているという恐怖心との戦いにもなると思います。それを克服するようなキッカケはあったのですか?
落合 高校1年のインターハイ予選落ちです。そのレースメンバーで、自分が(一番速い)タイムを持っていたので前に出なければいけなかったのに、少し引いてしまった結果、揉まれたまま終わりました。監督には「弱気なレースをしても意味がない」とアドバイスをもらい、今の前半から前にいくスタイルに変えていきました。
世界記録保持者のルディシャ選手も先頭で行って勝ち切るというのが持ち味だし、そういうレースが一番かっこいい。そういうレースができるようになる高校3年間にしようということで、そのスタイルになりました。
――1分44秒台を狙うなら、前半の400mはどのくらいでいかなければいけないと思っていましたか?
落合 自分が引っ張って51秒台でいかなければいけなかったと思います。高校だとインターハイは予選から多くの試合があったので、そこでは必ず最初から前にいく意識を持っていました。
ただ、(パリ五輪を逃した)日本選手権が終わってからは本当に悔しくて、1週間ぐらい走れませんでした。監督からも「インターハイは欠場してもいいぞ」と言われたけど2連覇がかかっていたし、それは成し遂げたいと思って走り出し、それでもう一度インターハイに向けて作り直して44秒台が出せたという感じです。
つづく>>
Profile
落合晃(おちあい こう)
2006年8月17日生まれ。滋賀県出身。滋賀学園3年時のインターハイ800mで、1分44秒80を出して日本記録を更新。久しく注目を集める選手が出てこなかった800mでの日本記録更新に注目が集まった。今年4月に駒澤大学に進学し、大八木弘明総監督のもと、世界のトップを目指している。
著者プロフィール
折山淑美 (おりやま・としみ)
スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。
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