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「自分で自分をほめたい」が流行語大賞になった有森裕子は「来年、還暦記念で最後のフルマラソンを走るつもり」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun

【4年前と違い、メダルを獲らないといけなかった】

1996年アトランタ五輪で2大会連続となるメダルを獲得 Photo by Aflo1996年アトランタ五輪で2大会連続となるメダルを獲得 Photo by Aflo

 アトランタ五輪の代表に選出された有森は、4年前のバルセロナの時とは異なる心情でスタートラインに立った。

「この時は、何色でもいいのでメダルを獲らないといけないと思っていました」

 バルセロナ五輪以降、ケガに悩まされたが、一番苦痛だったのはメダリストが新たな道を歩もうとする際にぶつかる周囲の無理解だった。有森は、円谷幸吉が東京五輪で銅メダルを獲り、その後、「もう走れません」と遺書を残して自死した時代とは違い、メダルはこれからさらに輝いていくための手形になると考えていた。

 だが、実際にメダリストになり、プロ的な生き方を望めば中傷され、厄介者扱いされた。メダリストであることに生きづらさを感じた有森は、飾っていたメダルを引き出しにしまった。たまに見ると黒くくすんでおり、なぜメダリストが思うように生きることができないのか、その思いが募り、泣きながらメダルを磨いた時もあった。

「バルセロナで銀メダルを獲った後、自分が強くなりたいという流れに乗れない。メダルを糧に頑張って生きていこうというのがはばかられるみたいな感じでした。スポーツ選手として、自分の能力や技術を生かして生きていくことがなぜできないのか。そこになぜアマチュアリズムが強調され、『金儲け』『わがままな生き方だ』と言われてしまうのか、納得がいかなかったです。

 メダリストが先を描けない人生はおかしい。この状況を変えるには、もう一度、メダルを獲って声を上げるしかないと思いました。メダルはある意味、印籠なのです。プロという概念がなかったこの時代、ものを言えるのは五輪のメダリストだけ。そう思ってメダルを獲りに行きました」

 レースは、エチオピアのファツマ・ロバが快走して優勝し、有森は30km過ぎに勝負に出たが、バルセロナ五輪で負けたワレンティナ・エゴロワ(ロシア)に抜かれた。最後、ドイツのカトリン・ドーレに6秒差まで追い上げられたが、振りきり、空を見上げ、まるで何かに許しを請うようにも見える複雑な表情でゴール。2時間2839秒で銅メダルを獲得した。

 レース後のインタビューではこう答えた。

「メダルの色は、銅かもしれませんけれども......終わってから、なんでもっとがんばれなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし......初めて自分で自分をほめたいと思います」

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