「外車の足回りですよ」原晋監督がその足さばきを絶賛した森田歩希 いま振り返る青学大黄金期の強さの理由
森田歩希は箱根駅伝には2年時から往路主要区間で存在感を発揮した photo by Jiji Press
初の箱根駅伝総合優勝を果たした2015年を皮切りに、黄金時代を築き上げた青山学院大。その主要メンバーとして存在感を発揮し、4年次には主将を務めた森田歩希(GMOインターネットグループ)が、2024年度をもって現役引退を表明した。
卒業から6年、選手としてひと区切りをつけ、すでに社業に専念し第2の人生を歩み始めているが、学生時代の経験が仕事への向かい方に大きく影響を及ぼしていると感じることも多いという。
その森田にあらためて青学大の強さ、実業団選手として走り続けた経験と今後の人生について聞いた。
前編:森田歩希インタビュー(全2回の1回目)
【「あの強さの源は、組織力にあったと思います」】
タッ、タッ、タッ、タッ。
青山学院大、GMOインターネットグループで活躍した森田歩希といえば、軽快な足さばきを思い出す。
「森田の足さばき、イメージ的には外車の足回りですよ」
森田の学生時代、青学大の原晋監督はそう絶賛していた。
その森田も28歳。このほど現役生活を引退、社業に専念することを発表した。話を聞くのは久しぶり。引退してから走っていますか? と質問すると、「引退を決めた去年の9月くらいから、ずっと走ってなかったんです。最近になって体を動かしたいなと思って、この前は6km、30分走りました。今じゃ、"キロ5"ですよ(笑)。徐々に距離を延ばしていってるんですが、10kmくらい走ると体が動いてくるんですよね」。
そのあたりの感覚は、さすがアスリートだ。
振り返ると、森田には幼いころから陸上競技が身近にあった。お父さんの桂さんは、國學院大学の元監督。森田は中学時代に、5000mで14分38秒99の中学最高記録(当時)をマークしている。茨城県の竜ヶ崎一高時代はケガに悩まされ、目立った戦績を残していなかったが、原監督は「中学時代に見せたポテンシャル。これは並々ならぬものがあると思ってね」と森田を勧誘した。
2015年に青学大は箱根駅伝で初優勝。森田はその年の4月に入学したが、チームはまさに絶頂期に入ろうとしていた。4年には神野大地(MABP)に小椋裕介(ヤクルト)、久保田和真、3年に一色恭志(NTT西日本)、2年には田村和希(住友電工)、下田裕太らがいた。
森田は1年生の時には出番がなかったが、2年になってから箱根メンバーに名を連ね、4区を走って区間2位、3年では花の2区で区間賞を獲得し、総合4連覇に貢献した。まさに黄金期を作ったメンバーのひとりである。
「あの強さの源は、組織力にあったと思います。優勝を重ねていくうちに、優勝できる練習メニューが完成していきました。この練習をこなして青学のレギュラーになれれば、最低でも区間3位で走れる。そのメンバーが10人そろえば勝てる。データがどんどん蓄積されていって、練習に"エビデンス"が備わった感じでした」
練習メニューだけではない。強い組織を構成するさまざまな要素があったと、森田は振り返る。
「原監督のビジョンは面白かったです。青学のミーティングって、監督がセミナーの講師スタイルで話をします。中身は、その日の個々の練習メニューについての説明は、ほとんどないです。それよりも、大枠のスケジュールがあって、今はこの時点にいる。今、大切なことはこういうことだよね、という意識づけを強調するミーティングでした」
箱根駅伝優勝というターゲットに向けて、練習がプログラミングされ、選手の意識を高めていく様子が浮かび上がってくる。こうした原監督のビジョンは、現在の森田の仕事にも生きているという。
「いまは、会社(GMOインターネット株式会社)でGPUクラウドサービスのマーケティングを担当していますが、プロジェクトの全体を見ること、仕事の流れを"点"ではなく、"線"で見ることの重要性を意識できているのは、学生時代の学びの影響もあります」
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著者プロフィール
生島 淳 (いくしま・じゅん)
スポーツジャーナリスト。1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大学卒業後、博報堂に入社。勤務しながら執筆を始め、1999年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る一方、歌舞伎、講談では神田伯山など、伝統芸能の原稿も手掛ける。最新刊に「箱根駅伝に魅せられて」(角川新書)。その他に「箱根駅伝ナイン・ストーリーズ」(文春文庫)、「エディー・ジョーンズとの対話 コーチングとは信じること」(文藝春秋)など。Xアカウント @meganedo