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箱根駅伝2025 3強崩しを狙う創価大・榎木監督 指導の原点は4年連続区間賞を獲得した中央大時代にあり (2ページ目)

  • 佐藤俊●取材・文 text by Sato Shun
  • 辻晋太朗●撮影 photo by Tsuji Shintaro

【まったく緊張しなかった初の箱根】

 榎木は宮崎県の強豪・小林高校から中央大に進学した。

「高校時代、12月になると、寮では都大路(全国高校駅伝)や箱根駅伝のビデオを流しながら食事をとるようになるんです。そのときに冨永(博文)監督が中大時代に1区で先頭争いをしているビデオを何度も見て、白地に『C』が入ったユニフォームにあこがれを持つようになりました。いざ進路を決める際には、渡辺康幸さんや"三羽烏"(武井隆次、花田勝彦、櫛部静二)が活躍していた早稲田大にも憧れていたのですが、かなり門が狭く、ちょっと難しかった。最終的にいろいろ考えて、冨永先生に中大に進学したいという意志を伝え、ちょうど中大からもスカウトの話があったので、進学することができました」

 都大路を3年連続で駆け、駅伝を走る楽しさを身をもって理解していただけに、その最高峰の舞台とも言える箱根駅伝を目指すのは、榎木にとって自然な流れだった。

「高校で都大路を走っているときから箱根を走りたいという気持ちがありました。先輩たちも箱根駅伝を目指して各大学に進学されていましたので、自分もという気持ちが強かったです。ただ、中大は当時、箱根で常時3位以内に入っていて、強い選手がたくさんいたので、4年間で1回ぐらい走れればいいかなというくらいの感じでした。何区を走りたいとか、区間賞を獲りたいとか、具体的なものは何もなかったです」

 第70回大会(1994年)、1年生の榎木は箱根駅伝の14名のエントリーメンバーに入り、8区をまかされた。

「最初はエントリーメンバー14名中、ギリギリで入ったような感じだったんです。経験や実績のある先輩がいたので、自分が走れるなんて全然考えていませんでした。直前の合宿で状態が上がってきて、最終的に2学年上の先輩と争う形になったものの、それでもまだ私は厳しいなと思っていました。でも、区間配置を決めていた碓井(哲雄)コーチが、8区に上級生を使うよりも1年生にチャンスを与えたいということで私に決まったんです。うれしかったですね」

 初めての箱根は、まったく緊張しなかった。むしろ、大きな試合を楽しみたいと思い、自分が輝ける場で走れる幸せを感じた。沿道には人が重なるようにしており、耳が痛くなるほどの声援を受けた。榎木は1年生とは思えない堂々とした走りで区間賞(6631秒)を獲得。区間記録にあと11秒と迫る好走を見せた。

「当時は130秒から35秒くらいのペースで押していけば区間賞を獲れました。今年の箱根でいえば区間18位のタイムなのでブレーキになりますし、ウチで8区を走った小池(莉希)が6616秒だったので、あまり変わらないですね(苦笑)。また、この時は区間賞を狙って走ったわけじゃないんです。自分のペースを刻んで走ってゴールしたら区間記録まで11秒だったという感じで。もうちょっと頑張っておけば良かったなと思いましたね(笑)。満足というのもなかったです。同期の松田(和宏)は(エース区間の)2区で4位という結果を出していましたし、チームには強い先輩がたくさんいたので、松田や先輩たちとはまだ力の差があるなと思っていました」

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