女子マラソン前田穂南が日本記録更新の前に「本当の自分を取り戻した」合宿があった

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi

会心のレース後、笑顔で表彰式に臨んだ前田穂南 photo by AFLO会心のレース後、笑顔で表彰式に臨んだ前田穂南 photo by AFLO

 1月28日に行なわれた大阪国際女子マラソンで東京五輪マラソン代表の前田穂南(天満屋)が、野口みずきが保持していた日本記録を19年ぶりに13秒塗り替える2時間18分59秒の日本新記録を樹立した(順位は全体2位)。今大会は、パリ五輪女子マラソン代表の最後の1枠を争うマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)ファイナルチャレンジの第1戦で、前田のそれまでの自己ベストは2時間22分32秒だった。

 パリ五輪女子マラソン代表になる条件は、この大会と3月10日に行なわれる名古屋ウイメンズマラソンで日本陸連が定めたファイナルチャレンジ設定記録(2時間21分41秒)を上回り、そのなかで最上位の選手になること。現段階では前田が残り1枠の筆頭候補になっているが、19年ぶりの快挙はいかにして成し遂げられたのか。関係者の証言から紐解いてみる。

【日本新への布石となったポイント】

 女子マラソンでは実に19年ぶりの日本記録更新は、まずはレース序盤に想定より速いペースメークで進んだことが伏線となった。

 当初、ペースメーカーの設定は、設定記録を1分ほど上回ること(2時間20分40秒)を想定した5km16分40秒とされていた。だが、4人のペースメーカーは最初の5kmを16分32秒で入り、以降5kmごとに16分27秒、16分34秒、16分35秒と2時間19分台に入るペースで進んだ。

 そして中間点を過ぎると前田がペースメーカーを置き去りにしてひとり抜け出し、16分18秒、16分10秒と"ひとり旅"を始めた。

「日本記録を出したいという思いがあったので、体が動いたらもう行こうと決めていた。練習でやってきたことを信じて、最後まで走ろうっていう思いで走りました」

 このように前田が振り返る一方、これまで5人の女子マラソン五輪代表を育ててきた武冨豊監督は、"ひとり旅"に至った背景を説明する。

「レース前から、15kmすぎまでちょっと我慢して、そこから自分が行けると思ったところで行けばいいと話していました。無理やりペースチェンジをしたということではなく自然と体が反応していたので、『これでいけるんだろう』という感覚は持っていました。最後まで行けるかという心配も少しありましたが、無理なペースチェンジにならなかったので、たぶん大丈夫だろうという感じはありました」

 24kmすぎには2位集団に追いつかれそうになりながらも、前田は自分のペースを崩すことなく徐々に差を広げていく。30km手前から前田を追走し始めたウォルケネシュ・エデサ(エチオピア)が32㎞手前で追いつき一気に抜いていったが、10秒強の差をつけた後、伸びきらなかったことが前田の日本新記録への追い風となる。前田は34km付近では1kmのラップタイムが3分26秒まで落ち「ここまでか」と思えたが、そこから3分20秒前後に戻して前のエデサを追い、最後まで粘りを見せた。

「(ペースメーカーの)最初の入りが設定より少し速かったことがいいきっかけになりました。設定どおりか少し遅いくらいだったら日本記録は厳しかった。15kmまでのタイムが5kmで10秒弱速かったことが、あの走りにつながったと思います。終盤も前の選手が思ったより離れずに良い目標になったり、いろんな状況や運が味方をしてくれたと思います」(武冨監督)

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著者プロフィール

  • 折山淑美

    折山淑美 (おりやま・としみ)

    スポーツジャーナリスト。1953年、長野県生まれ。1992年のバルセロナ大会から五輪取材を始め、夏季・冬季ともに多数の大会をリポートしている。フィギュアスケート取材は1994年リレハンメル五輪からスタートし、2010年代はシニアデビュー後の羽生結弦の歩みを丹念に追う。

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