箱根駅伝の経験が鈴木健吾を変えた マラソン日本記録保持者が大学時代に味わった感覚 (3ページ目)
【2区区間賞、12年ぶりのシード権奪還へ】
鈴木はジョグへのこだわりが強く、箱根駅伝予選会で日本人トップになった翌日も朝から30キロ走っていたという。もはや鉄人レベルだが、ジョグが鈴木の強さを形成していったのは間違いなかった。
また、3年時に駅伝主将を任されたことも大きかった。
「4年生から、僕ら3年生にチームを引っ張っていってほしいという話になり、僕が主将に抜擢されたのですが、僕はキャプテンシーがあるタイプじゃないですし、チームを引っ張るのは苦手でした。でも同期のマネージャーがすごくできる人で、細かいことは彼が責任を持ってやってくれました。僕は走って結果を残すことに専念したので、それが良かったと思います」
鈴木が主将としてチームを牽引していくなか、4年生のサポートも非常に大きかった。チームを支える気持ちで鈴木への協力を惜しまなかった東瑞基や朝倉健太らの後押しもあり、鈴木は2区区間賞、チームは総合5位で12年ぶりにシード権を獲得した。
「僕は主将としての務めを果たせた満足感でいっぱいでした。個人としても2区区間賞を獲れましたし、そこでの走りで多くの人に名前を知ってもらった。箱根で一番気持ちよく走れましたし、結果も出た。もっとも印象に起こる箱根になりました」
チームは2年連続でのシード獲得に向け動き出したが、鈴木は3月の学生ハーフで優勝した後、故障した。なんとか体調を戻し、夏のユニバーシアードハーフマラソンでは3位と、調子を戻しつつあった。しかし、10月の出雲駅伝は「まだダメだ」と大後監督に言われ、チームから離れて10月から伊豆大島での個人合宿で走り込み中心のメニューをこなし、11月の全日本大学駅伝で復帰した。
だが、大会前、昨年とは明らかに違う空気が鈴木を覆っていた。
「3年の時、2区で区間賞を獲ってから周囲の目が変ったなと思いました。注目されることは嬉しいのですが、そこで自分が浮足立ってしまうんじゃないかといろいろ考えてしまいました。箱根が近づくにつれて取材とかもすごく増えていって...。僕は4年生で駅伝主将としてもチームのことを考えないといけないですし、練習にも集中しないといけない。普段と違うことでの疲労感を感じ、自分自身が削られているような感覚がありました」
注目された最後の箱根駅伝は2区4位、チームは総合13位となり、2年連続でのシード権獲得には至らなかった。
箱根駅伝は鈴木にとって、どんな大会だったのだろうか。
「箱根を4年間走って思ったのは、20キロの距離を走れたことがその後、マラソンを走る上ですごく大きかったです。メディアの影響力もありますが、これだけ注目される大会ってなかなかないですし、そこで結果を出すことで僕の名前が全国に広がった。いろんな意味で自分を大きく変えてくれたのが箱根駅伝でした」
後編に続く>>鈴木健吾が明かす「マラソン日本記録保持者の苦しさ」 妻の一山麻緒もマラソンでパリ五輪を目指す
【プロフィール】
鈴木健吾 すずき・けんご
1995年6月11日、愛媛県宇和島市生まれ。小学校6年時から陸上を始め、宇和島東高校から神奈川大学へと進学。箱根駅伝では1年時より6区を務め、2年以降は3年連続で2区を好走。富士通に進んだのち、第76回びわ湖毎日マラソンにて2時間04分56秒の日本新記録を樹立した。
著者プロフィール
佐藤 俊 (さとう・しゅん)
1963年北海道生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、出版社を経て1993年にフリーランスに転向。現在は陸上(駅伝)、サッカー、卓球などさまざまなスポーツや、伝統芸能など幅広い分野を取材し、雑誌、WEB、新聞などに寄稿している。「宮本恒靖 学ぶ人」(文藝春秋)、「箱根0区を駆ける者たち」(幻冬舎)、「箱根奪取」(集英社)など著書多数。
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