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リレーのリザーブ要員はレース本番直前までどんな気持ちだったのか 小島茂之は練習で猛アピールも「出られないんだ」と涙を流した (3ページ目)

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 中村博之●撮影 photo by Nakamura Hiroyuki

 予選も決勝も、メンバーを送り出す瞬間まで「自分はいつでも替われる」という気持ちでいた。しかし、練習トラックから決勝でスタジアムへ向かう4人のうしろ姿を見た時は、「出られないんだ」と思って涙が流れた。

 その悔しさを振りきるように、全力で250m走のタイムトライアルを1本走った。

 翌年に北京五輪があったことで、気持ちは救われたと振り返る。

「補欠で走れなかった悔しさは、あの大阪の時が一番大きかったけど、送り出したあとは『強いチームにいたんだな』と思って『メダルを獲って欲しい』と思ったし、そのチームにいられて幸せだと思いました。決勝が5位だった時は『日本新を出してもメダルが獲れないんだ』と思ったのを覚えているけど、レース後に高平などが『小島さんがどこでも走れる準備をしてくれていたから頑張れた』と言ってくれたのはうれしかったです。

 自分はたまたま走れなかったけど、やるべきことは100%できたかなと思っていたし、どこを走ったとしても自分の競技人生で最高のパフォーマンスが出せるなと思っていたので。本当は走りたかったけど、自分の中では納得していたし、走った4人と一緒に戦えたことをうれしく思いました」

 北京五輪を目指した2008年、脚に不安があった日本選手権は4位で代表を逃した。そこで引退も考えたが「もう1年やってから次の五輪挑戦を考えよう」と競技を続け、2009年は、日本選手権の準決勝で10秒26と世界選手権B標準を突破し、決勝で3位以内に入れば代表になれるところまで迫った。しかし、決勝では思っていた走りができず7位。そして、引退を決意した。

「振り返ってみれば、代表を5年間外れて戻ってくる選手はなかなかいないので、2006年からの2年間は幸せでした。周りの人に支えられてもう一度日の丸をつけられました。20歳で出場したシドニーの五輪代表ももちろんうれしかったけど、代表復帰をした2007年の世界選手権のほうがうれしかったですね。走れなかったけど『帰ってこられた』という、うれしさがありました。リレーメンバ-として、いい状態を作れたあの世界選手権は、自分の競技人生のなかの勲章だったと思います」

Profile
小島茂之(こじま しげゆき)
1979年9月25日生まれ、千葉県出身。
市立船橋高校時代から頭角を現し、早稲田大学進学後20歳でシドニー五輪の個人種目100mと4×100mの日本代表に選出された。その後、富士通へ進んだが、ケガに悩まされることも多く、2004年にアシックスへと移籍。2005年に日本代表に復帰を果たし、大陸対抗W杯では4継で銅メダルを獲得した。翌年のアジア大会100mで6位入賞を果たし、2009年に引退した。

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