リレーのリザーブ要員はレース本番直前までどんな気持ちだったのか 小島茂之は練習で猛アピールも「出られないんだ」と涙を流した

  • 折山淑美●取材・文 text by Oriyama Toshimi
  • 中村博之●撮影 photo by Nakamura Hiroyuki

 2005年は4月の織田記念で末續に次ぐ2位になったが、日本選手権は8位。2006年は日本選手権で塚原直貴(東海大)に次ぐ2位になり、12月のアジア大会にも第1次選考で選ばれて久しぶりに日本代表に復帰を果たした。さらに9月にアテネで開催された大陸別対抗のワールドカップには、アジア代表として塚原や末續、高平慎士とともに4×100mリレーにも出場。4走を務めて銅メダルを獲得した。

「自分のなかでは、練習のコントロールや体の使い方が少しずつわかってきて、学生時代よりも速く走れる感覚でした。ワールドカップでは『やっと代表に戻ってこられた』というのと、自分でも好きで最も力を出せると思っていたのが4走だったので、うれしさも感じました。塚原の1走はうまかったし、末續の加速もすごくて、高平のコーナリングもうまかった。アンダーハンドパスもみんなうまくなっていたので、このチームで来年も走りたいという思いはありました」

 12月のアジア大会は100mで6位に入ったが、4×100mリレーの出番はなかった。3走には200mで07年世界選手権A標準を突破している大前祐介(富士通)が入り、高平が4走というオーダーに変わったのだ。だが小島は納得していたという。

「リレーのオーダーはコーチがその時のベストメンバーを選ぶものだと思っています。走れなかった悔しさはあったけど、個人の100mの決勝で、予選や準決勝よりタイムを落とした自分が悪いので。塚原は個人でも銀メダルだし、末續と高平も200mで1位と3位。リレー要員だった大前もしっかり準備をしていたので『何で自分が外されたんだ』というのは一切なかったですね。それよりも自分がダメだったことへの喪失感というか......。

 やっと代表に戻ってきて個人のレースにも出たのに、まだ力がないのかと自分に対しての情けなさのほうが大きかったですね」

 そんな小島が競技人生の集大成のひとつと考えていたのが、27歳で迎える2007年世界選手権大阪大会だった。そこには主要大会を1年休んでいた朝原も復帰してきて、競争は厳しくなっていた。

 小島は、7月の南部記念で最後の1枠に滑り込んだ。そのあとも個人種目出場のために100mA標準の10秒21を突破目指したものの10秒24と届かず、2000年シドニー五輪と同じく、リレー要員としての代表となった。A標準を突破の4人が揃っている状況では、走れる可能性は低かった。

「最初からリザーブという立場でしたが、やるべきことは明確でした。もちろん集大成だと思っていたからこそ、走りたいという思いは強かったけど、チームの意識も高くなっていたので『どうやったらこのチームは強くなれるか』ということも考えていました。だから、まだ若くて先輩たちについていくだけだったシドニー五輪の時とは視点もまったく違いましたね。自分勝手ではなくチームがうまくいくように、万が一、誰かが痛んだ時はすぐ行けるようにとイメージも体も準備していました」

 コーチ陣からは、「どこでも走れるように準備しておいてくれ」という指示があった。そのなかでも小島は1走の練習に集中したという。

「3走というのはないだろうし、直線だったら100mでいつも走っているから、コーナーの準備さえしておけばどこでも走れる」という考えだった。

 自分が不安そうな顔をしていたらいいチームにはならない。モチベーションを保って万全に準備することで、チームは強くなれると考えた。

「リレー要員で入った限り、シドニーの時のようにチャンスはあると思っていたので『めちゃくちゃ調子いいですよ』と必死でアピールしたのは覚えています。自分が走れなかったとしても何ができるかということだけに集中していたからこそ、調子がよくて、感覚的にはいつでも自己ベストを出せるような感じでした。人生のなかでも、リレーの準備が一番できていた時だったと思います」

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