「箱根駅伝本番直前に重要区間から外された」青学大・下田裕太 それでも初出場で8区区間賞が獲れたワケ (2ページ目)
【もともと青学大に進学する予定ではなかった】
下田裕太が原晋監督と初めて話をしたのは、青学大進学を決断する日だった。
「原監督曰く東海大会で下田の走りを見て勧誘したって言っていましたけど、直接話をしたのは今日決めます、みたいな日でした。ですから、特に口説きとかなかったです(笑)。本当は、他の大学に進学する予定だったんですけど、青学大は出雲で優勝したり、勢いがありましたし、強い選手もいて、環境も良かったので」
下田が青学大に入り、練習する中で最初に感じたのは、思ったよりも距離を踏むということだった。上下関係も意外とあり、寮則も厳しい。ただ、スター選手と呼ばれていた選手が思ったほど遠い存在ではなく、「スターもやっぱり人なんだなぁ」というのを実感したという。
「当時の僕にとってのスター選手は、久保田(和真)さん、一色(恭志・NTT西日本)さんでした。陸上界のスター選手と一緒に生活したことがなかったので、初めて寮で一緒に生活したんですが、すごく特別なことをしているのではなく、地道な練習を積み重ねて強くなっているんだなと思いましたね。久保田さんは、すごくフレンドリーで近い感じな一方、神野(大地・セルソース)さんは地元が愛知で静岡の自分と近いんですけど、1年目はほとんど話をしたことがなくて、ちょっと遠い存在でした」
ちなみに1年目の前期、寮の同部屋は村井駿だった。村井はいびきがうるさく、下田もいびきと歯軋りの問題を抱えていたので、うるさい者同士で被害者を少なくするために抱き合わされたという。
入学時、下田の同期は12名いた。もっともタイムが良く、ドラ1で入学してきたのが中村祐紀(住友電工)で、下田は10番目のタイムだった。
「入学してきた時は、そこまで自分に才能があると思っていないので、4年で1回は箱根を走りたいなという感じだったんです。目先の結果というよりも1年目に何をすべきか。まずは、大学の練習に慣れていくことを優先していました。記録会にも出ていたんですが、5000m14分20秒ぐらいだと箱根のメンバーになれないのはわかったので、ハーフの距離に対応しようとしていました」
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