箱根駅伝6区を坊主頭で爆走→ 一躍、時の人に 日体大・秋山清仁はなぜ「下りのスペシャリスト」になれたのか (2ページ目)
【高校時代から6区出走が夢だった】
入学前から秋山は6区を走るという明確な目標を持っていた。入学後に「6区を走りたい」と監督に訴え、通常の練習以外に6区を希望する先輩と走るようになった。
「6区を走ると決めたのは、高校時代です。高3の合宿時、監督に『おまえ、下りが向いているんじゃないか』と言われたんです。ふだん、厳しい印象が強い監督だったので、そう褒められたことでその気になってしまい、1年の時から6区を走ることを意識して練習をしていました」
高校時代から6区を走ると決めていたせいか、入寮してすぐに運命的ともいえる出来事があった。同部屋になったのは前年に6区を駆けた鈴木悠介(元JR東日本)だった。
「入学したら6区を走った鈴木さんと話ができたらな、って思っていたら同じ部屋になって。鈴木さんからは、下りの話はもちろん、箱根が近づいてきた時、何をしているのかとか、準備のところを見ることができましたし、走るうえでの心構えとか、メンタル面のことも教えていただきました。怖がったら下りは走れない。思いきっていけば後半はむしろラクに走れる。そういう話を聞けたので、自分にとってはすごくタメになりました」
大学2年時、秋山は6区を目指すひとつ上の先輩と夏まで練習を積んでいた。だが、9月、ふたり同時に故障してしまい、10月までの2カ月間、練習ができなかった。当時、秋山は走力ではチームで16番以内にも入れていなかったが、監督が下り要員の枠を作ってくれたこと、運よくその先輩より先に復帰できたことで箱根駅伝のメンバー入りを果たすことできた。そうして、小学生の頃の夢だった箱根駅伝の舞台に立つことができた。
「最初は緊張しましたね。スタート前はめちゃくちゃビビって、なんで僕はここにいるんだろう、なんでここに来ちゃったんだろうってすごく怖かったんです。しかも、最初の上りがめちゃくちゃキツくて、足がパンパンになり、2度とこんな坂上りたくないと思いました。ただ、上りと下りで使う足が僕は違うので、これを上りきったら下りが待っている。そういう気持ちだけで走って、下りに入ると、楽しくてもう終わっちゃうのかって感じでした」
初めての箱根駅伝6区は非常に刺激的で学びが多かった。それまでテレビで見てきた6区は単独でスタートするイメージだったが、この時は一斉スタートだった。走り終わったあとは、コースの印象や自分の感覚をメモに残した。
それが活きたのが大学3年時の箱根駅伝だった。この時は「山の神」神野大地の走りで1位の青学大に10分以上の差をつけられる大学が多く出て、日体大も復路で一斉スタートになった。だが、前年に経験していた秋山には余裕があった。
「6区一斉スタートだと、箱根の空気感も相まって集団の前に出たくなってしまう選手が多いと思ったんです」
秋山は「自分が、自分がという気持ちを出しすぎると、後半もたない」というのを前回大会で経験していたので、冷静さを保ちつつ、鈴木が出した日体大記録の58分51秒を超えるんだという覚悟を持ってスタートした。
「走っていてすごく楽しかったですね。ただこの時、僕は区間新で走っていたことにまったく気がついていなかったんです。箱根湯本から監督車が出てきた時、そのままのリズムで行くぞと声かけをしてもらいました。そうしたら早稲田大の監督車から『前の日体大の選手が区間新ペースで行っているので、ついていこう』と言っているのが聞こえてきたんです。あれ、自分ってそんなペースで走っているのかって思って。そこからもうひとつギアを上げました」
秋山は苦しい表情を浮かべながらも区間新を叩き出し、チームの総合7位、シード権獲得に大きく貢献した。この時の秋山の走りは、テレビを見ていた多くの人に強烈なインパクトを与えた。都大路を走る高校生のような丸刈り頭で、黒いレッグカバーをつけて激走したのだ。
「あの坊主は訳ありで(苦笑)。12月1日、部のミーティングで箱根まで1か月、気を引き締めるために、寝坊したら坊主だということになったんです。そうしたら、その翌日に寝坊してしまい、そのペナルティで本当に申し訳ございませんって感じで坊主にしたんです。でも、それでみなさんの印象に残ったようだったので、坊主でよかったのかなというのもありましたね(笑)」
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