「箱根駅伝を見たことがなかった」高校生が東洋大優勝メンバーへ。髙久龍「設楽さんとか強すぎて一歩引いていた」 (2ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日本スポーツプレス協会/アフロスポーツ

「夏合宿明けに埼玉記録会というのがあって、それが東洋大の出雲駅伝の選考レースだったんです。そこで設楽(悠太)さんとそんなに変わらないタイムで走れて、出雲駅伝のメンバーに選ばれました。出雲で駅伝デビューができたので、この記録会が僕のターニングポイントになりました」

 髙久が成長したのは、彼自身の努力が大きいが、部内環境も大きかった。

「最初、設楽(悠太)さんとか強すぎて、一歩引いていましたね。勝ちたいというよりもやっぱりすごいなで終わっていました。でも、設楽さんや先輩にくっついて走ることで自然に力がついてきましたし、先輩たちと同じメニューでいい動きをしないと駅伝のメンバーには選ばれなかったので、途中からは追いつきたい、勝ちたいという気持ちが大きくなっていきました。それからですね、陸上に対して初めて欲が出たのは。記録会とかあまり出なかったですけど、チーム内で設楽さんや先輩に勝てれば他の大学や選手には負けない自信があった。それくらい東洋のレベルは高く、環境的にはすごくよかったです」

 東洋大の選手は、記録会やトラックのレースにはあまり出場しない傾向にある。選手にとってタイムはレースへの参加資格を得たり、現在地を知るうえで必要なものだが......。

「確かに僕がいた時もレースや記録会にがっつり合わせる感じではなかったです。Aチーム、Bチームがあって、強い先輩たちがいるAチームのメニューを、余裕をもってこなすことができた時に大会で結果が出たので、練習が自分たちの物差しになっていました。だからこそ大会や駅伝に対してすごく集中して、頑張ろうって臨めたのだと思います」

3年時の箱根駅伝は急遽出場することに

 髙久は、出雲駅伝は5区区間新、全日本大学駅伝は5区3位と好走を続けた。箱根駅伝では、1年前の悔しさを糧に成長した自分をぶつけようと決意した。

「1年の時の箱根に、同期の田口(雅也)が出ました。田口は入寮した時は、1番タイムが遅く、朝練習で12キロを走るのですが、4キロ手前で離れてしまい、監督に『夏まで自分でやれ』と言われるぐらい弱い選手でした。それが1年で唯一箱根に出て、区間賞を獲って優勝メンバーになったのです。田口が走ったのはうれしかったのですが、本音は悔しいし、みんな負けていられないというのがあった。次は絶対に自分が走るという気持ちがより大きくなりました」

 初の箱根駅伝は、7区4位と健闘したが、総合2位に終わった。3年時は、故障が続き、箱根駅伝のエントリーメンバー入りはしたが、ポイント練習でケガをしてしまい、酒井(俊幸)監督からは「外す」と言われた。だが、区間エントリ―の際、出走予定の先輩が体調を崩してしまい、急遽、出番が回ってきた。

「先輩からは、こんな感じで選ばれるのって何か持っている時だから自信をもっていけって言われて。その時のライバルが駒澤大で、同じ8区は1年生の大塚(祥平・現九電工)だったのですが、負けるわけがないって思っていましたし、早く走りたくてうずうずしていました」

 髙久は、8区区間賞でチームの総合優勝に貢献した。あまり実感が湧かなかったが、実家に戻った時、両親や周囲が喜ぶ姿を見て、優勝してよかったとつくづく感じた。

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