「箱根駅伝を見たことがなかった」高校生が東洋大優勝メンバーへ。髙久龍「設楽さんとか強すぎて一歩引いていた」 (3ページ目)

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 日本スポーツプレス協会/アフロスポーツ

 4年時は副キャプテンになり、箱根駅伝2連覇を目指した。だが、チーム事情により、故障を押して出場した全日本大学駅伝で症状を悪化させ、箱根は早々に断念せざるを得なくなった。普通なら腐りそうになるが、髙久は後輩たちへのサポートをすることで気持ちを前向きにリセットした。故障していた髙久は、同じ治療院に通う上村和生(現大塚製薬)ら後輩に同行し、張っている箇所をトレーナーに聞き、食事後、部屋で彼らにマッサージを施すなど、裏方に徹した。

「今、思うと自分でもよくやったなぁと思うくらい後輩の面倒を見ていました。それを監督が見てくれていて、『そういうのは実業団に行った時、必ず活きるから』と言ってくれました。当時、練習ができないし、気持ちが落ち込みがちだったのですが、そういうことを言ってもらえたおかげでモチベーションを維持して、箱根に臨むことができました」

 髙久は後輩たちへの献身的なサポートでチームを支えたが、箱根駅伝は総合3位に終わった。優勝したのは、箱根初制覇を果たし、これ以降、ライバルとなる青学大だった。

「ちょうど青学大が上ってきている時で、あのキラキラした感じはすごいなぁと思いつつ、ちょっとかなわないなと思っていました(苦笑)」

 髙久は、4年間で2度、箱根駅伝を駆けた。一番印象に残っているのは、やはり3年の時の優勝だという。

「2年生の時は、生活面では1年生の面倒を見ないといけないですし、陸上面では箱根で勝たないといけないとそればっかり考えていた。そのせいで変に体に力が入って、硬くなり、結果もよくなかった。でも、僕が3年の時、4年生はチームを引っ張ったり、監督との距離が近くなったりして陸上以外に考えることが多いのですが、自分たちは伸び伸びやれた。箱根を走っていてもすごく楽しかったですし、それが結果として表われ、優勝できたので本当に最高の箱根でした」

 優勝の経験、そして箱根駅伝を走ったことは、その後の髙久の陸上人生にどんな影響を与えたのだろうか。

「最近は、箱根駅伝がゴールという選手も多いですよね。僕らの時は、酒井監督が『世界で戦ってほしい。箱根はあくまで通過点』と言われていたので、常日頃からそのことを意識していました。箱根の練習を通して長い距離を踏んでいくなかで、いずれはマラソンで勝負したいなという気持ちも湧いてきました。僕は箱根に成長させてもらいましたし、箱根への取り組みが今のマラソンにつながっていると思います」

 箱根駅伝は髙久にとって一番大きなものになった。だが、大学を卒業し、実業団に入って活動するなか、箱根は五輪に比べると「小さな世界」であることがわかった。それでも得たものは多く、それをベースに髙久は、五輪出場に向けて歩んでいくことになる。

後編に続く>>「競技人生の最後」と決めてパリ五輪を目指す理由

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