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箱根駅伝で「男だろ!」の声かけに違和感。駒澤大時代を山下一貴が振り返る「2年時は抜かれすぎて何も感じなくなった」

  • 佐藤俊●文 text by Sato Shun
  • photo by 西村尚己/アフロスポーツ

2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第2回・山下一貴(駒澤大―三菱重工)前編

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駒澤大時代は箱根駅伝で2区を3度走った山下一貴駒澤大時代は箱根駅伝で2区を3度走った山下一貴この記事に関連する写真を見る

自分たちは駒澤大のなかで「弱い代」

 大阪マラソン・びわ湖毎日マラソン統合大会で、36キロ過ぎから先頭集団を形成し、最終的に2位となり、MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)出場権を獲得した山下一貴(やました・いちたか/三菱重工)。駒澤大時代は、2年生の時から3年連続でエース区間の2区を駆け、卒業後はマラソンをするために地元・長崎に戻ってきた。競技に集中できる環境で結果を出し、2022年アジア大会(延期が決定)の男子マラソン代表にも選出され、今後の活躍が期待されている。

「本当は、高校を卒業して、すぐに実業団に入りたかったんです」

 山下は、そう言って笑顔を見せた。

「勉強が嫌いなので、働きながら走りたいと思っていたのですが、どこも拾ってくれなかったんです(苦笑)。どうしようかなと考えていた時、担任の先生との2者面談で『山下は陸上で上(大学)を目指さないのか』と言われたんです。実業団からの話はないし、だったら大学に行くしかないと思い、いくつか誘っていただいたなかから一番強い駒澤大学に決めました」

 山下が駒澤大に入学したのは、2016年である。同期は、わずか8名と例年よりも少なかった。少数精鋭と言うと聞こえはいいが、実際は入学予定の選手が青学大や東海大に流れていくことが多かった。

「例年の駒澤のレベルで言うと、僕らの代はタイムも実績もそれほどなくて、最初は『弱い代』と言われていました」

 入学当時の山下の5000mの持ちタイムは、14分31秒59、一番早かったのは中村大聖で14分03秒48。現在のように13分台の選手が多く入ってくる時代ではなかった。ただ、4年生には中谷圭佑、大塚祥平、3年生には工藤有生ら強い先輩がおり、鍛えられて2年時には駅伝に絡んでいくようになる。駅伝デビューになった全日本大学駅伝では8区を任され、区間7位とまずまずの走りを見せた。その流れから箱根駅伝を走る感触は掴んでいた。何区を走るのはわからなかったが、大八木弘明監督には希望区間として「復路で、ひとりで走るところを頑張っていきたい」と伝えていた。

 その準備をしていたがレースの10日前、大八木監督に呼ばれた。

「おまえ、1区と2区、どっちがいい」

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