【やり投げ】村上幸史メダル獲得へ。「ディーン元気の台頭はすごくありがたい」

  • 折山淑美●文・取材 text by Oriyama Toshimi
  • 山本雷太●写真 photo by Yamamoto Raita

『リスタート・アスリート』Vol.5
ライバルになる相手がなかなか現れなかった、日本のやり投げ競技の先頭をひたすらひとりで走ってきた。『世界へ近づくこと』『日本記録を更新すること』。記録への挑戦はすべて自分との戦いになっていった。しかし彼は追い詰められることなく、自分の成長を楽しむことができた。その結果、彼に続く若手も現れた。やり投げ界の活性化をうれしく思いながら、内なる闘志を胸に、村上は3度目の五輪に挑む。

北京五輪で感じた世界との距離「ただの予選落ちではなかった」

 世界のレベルが上がり、鉄人の血を受け継ぐハンマー投げの室伏広治以外は通用しないと見られていた日本の投てき競技。だからこそ、村上の09年世界選手権での銅メダル獲得は、陸上関係者を驚かせる快挙だった。89年に、当時の世界記録にあと6cmと迫る87m60をマークした溝口和洋でさえ実現できなかった世界大会のメダルだったからだ。

 村上の頭の中には、「重量の重い物を投げる砲丸投げや円盤投げは、体格と記録に絶対的な関係がある。だがやり投げのやりは800gで体格は関係ない。日本人でも世界に通用するはず」という思いをずっと持っていた。

 だが、本気で世界と戦いたいと思うまでには時間がかかった。00年に日本選手権を初制覇すると、01年には80m59を投げて80mスロワーになったが、世界のトップ4は90m台。村上の世界ランキングは51位で、あまりに世界と離れていた。

 その意識が変わったのが29歳で迎えた北京五輪だった。

 アテネ五輪に初出場してから4年、2度目の五輪出場を前に村上は、『そろそろ競技人生を終わりにしてもいいかもしれない』と考えていた。このとき日本選手権を08年まで9連覇し、世界には届かなかったが、やることはやったという気持ちもあったからだ。

 雨の中での北京五輪の予選A組で村上は、2投目に78m21を投げて8位。その後のB組が終わって結果を見ると、総合では15位で、決勝へ進める最低順位の12位の記録までは1m49㎝足りないだけだった。

「もし北京が惨敗で終わっていたら、今の僕はいなかったかもしれません。そこはもう、神様に感謝ですね。ああいう悔しいと思える差で予選落ちをさせてもらったから」

 こう話す村上は、それまでの自分を「気持ち的にも簡単に言えば適当だったと思う」という。競技をするにはある程度のアバウトさも必要だと思っていたが、それはあくまでも繊細な部分まで突き詰めたうえでのアバウトさでなければ意味がないことに気が付いた。そのころの自分は競技をそこまで突き詰めていなかったと言うのだ。

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