「毎日をただ生きているだけだった」。スノーボード小須田潤太、パラスポーツとの出会い、二刀流に挑戦するわけ

  • 星野恭子●取材・文 text by Hoshino Kyoko
  • 吉村もと●写真 photo by Yoshimura Moto

【人生を変えた山本篤との出会い】

 小須田の人生が大きく変わったのは2012年の春だ。仕事中の交通事故により、右足を太腿から下で切断。リハビリを経て、義足での生活が始まった。

 その後、2015年夏、義肢装具士や理学療法士らに薦められ、義足で初めて走る人を対象にした「ランニングクリニック」に参加した際、大きな出会いがあった。自身も左大腿義足のパラリンピックメダリストで、講師のひとりを務めていた山本篤だ。

 小須田はこのとき、自分と同じ大腿義足なのに驚くほど機敏に動き、しかも世界で戦うトップアスリートの山本に大いに感化された。

「僕にも可能性があるかもしれない」

 もちろん、すぐに山本のように走れたわけではなかったが、「もうできない」と思っていた走ることが、「義足をつければできる」ようになることに大きな喜びを感じた。

 その後、山本のあと押しもあり、本格的に陸上競技を始めると、どんどん夢中になった。トップアスリートが隣で指導してくれるチャンスを小須田はしっかりとつかんだ。

 2016年春からは国内大会にも出場。その夏、リオ大会で銀メダルを手にした山本の姿に、「2020年の東京大会には自分も出る」と誓った。覚悟を決めた小須田は競技と両立できる環境を整えるために転職し、就業後や週末に練習を重ねていく。

 持ち前の運動能力で実力を伸ばしていったが、練習をはじめた当初は、義足と断端(切断部位)をつなぐ「ソケット」と呼ばれる部分の調整が難しく、断端に痛みがでるなど苦労した。筋量のアップに伴った体形の変化が著しく、ソケット部分を何度も作り直さねばならなかった。

 義足の調整もようやく落ち着き、陸上でも100mや走り幅跳びの自己記録を伸ばしていた小須田が、スノーボードを始めたのは2017年末のことだ。きっかけは、やはり尊敬する山本が義足になる前から楽しんでいたというスノーボードで、2018年平昌パラ出場を目指すことを宣言したからだった。

「篤さんに置いていかれたくない」

 小中学校時代にスノーボード経験があった小須田はすかさず、山本の背中を追いかけ、自分もスノーボードを始めた。陸上用とは異なる専用の義足も購入し、2018年2月には国内大会にも初出場。その後、目標を達成して平昌大会に出場し、「夏冬パラリンピアン」になった山本のあとを追い、小須田の「二刀流」もスタートした。

 陸上で鍛えた運動センスもあり、スノーボードの日本代表強化選手にも選ばれ、2018年末頃から国際大会にも出場し始めた。

 パラスノーボードではボードやブーツなどは健常者と同じものを使うが、義足の選手は自身の障がいや体形などに合わせた義足で滑る。いかにバランスよくボードに乗り、しっかり滑らせるには義足を使いこなし、体幹の強化などが必要だ。決して簡単ではないが、そんな挑戦も小須田には楽しかった。

 とはいえ、あくまでも第一のターゲットは東京パラの出場だった。2019年4月、小須田は山本のいる大阪へと練習拠点を移した。職場の理解も得て大阪支社に異動し、仕事時間も調整してもらうよう交渉するなど競技生活に比重を置いた生活を整えていった。

 そうして、記録も徐々に伸ばした小須田は厳しい選考条件をクリアし、2021年、念願の東京パラリンピック出場権をつかみ、走り幅跳びで7位入賞も果たした。

 キャリアが浅く、急激に記録を伸ばした小須田はアジア選手権や世界選手権などの出場経験がなく、初めての日本代表戦がパラリンピックとなったが、大舞台で自己ベストを更新し、「ただ、楽しかった」と声を弾ませた。

 東京パラで自身の出場種目を終えると、小須田はすぐに冬仕様に切り替え、スノーボードの海外遠征に出た。北京大会を見据え、これまで以上に集中して練習したおかげで、2021年12月のワールドカップ・スノーボードクロスでは第1戦で3位と初めて表彰台に上る。北京パラ直前の世界選手権バンクドスラロームでは惜しくも入賞を逃す9位だったが、精一杯の滑り込みと周囲のアドバイスを受け、小須田は北京大会に挑んだのだった。

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