アルペン村岡桃佳、メダル連発もまだ通過点。 最終日まで「攻める」 (2ページ目)

  • 荒木美晴●取材・文 text by Araki Miharu
  • photo by Photo Service One/Uehara Yoshiharu

 村岡は4歳の時に横断性髄膜炎を発症。下半身がマヒし、ふさぎがちだった村岡の気持ちを変えたのが、車いすを使ったさまざまなスポーツだった。車いすテニスや陸上などに挑戦し、父親と参加したチェアスキーの体験会をきっかけに、中学2年から本格的にアルペンスキーを始めた。

 国内では数少ない女子選手。すでに世界を主戦場に活躍していた男子の森井や狩野亮(マルハン)らから直々に技術や用具について指導されると、そのすべてを吸収し、ぐんぐんと上達した。ナショナルチームは男女合わせて、ひとつのチームとして海外遠征などに出るため、女子選手としての苦労もあっただろうが、それを感じさせない成長曲線を描いていった。

 キレのあるカービングターンを武器に、高校2年でソチパラリンピックに初出場。得意の大回転で5位入賞の成績をおさめたが、スーパー大回転は旗門不通過で失格、回転は9位と納得いくレースができず不完全燃焼に終わった。

 そのなかで、森井や狩野がメダルを獲る姿を目に焼きつけた。大会終了後、「先輩たちのような滑りがしたい。早く練習がしたい」と語っていたのが印象深い。高校卒業後は、早稲田大学にトップアスリート入試で入学。名門のスキー部に所属し、寮生活を送る。1年の半分はワールドカップや合宿などで不在だが、学業との両立を図りながら、競技に取り組んでいる。

 開幕前の3月3日に21歳になった村岡。アルペンスキー競技においては、男女を通して最年少でのメダル獲得となった。

「ここまでたくさんの人と関わって人間性の部分でも成長できたし、用具も信頼して挑めているので、4年間のすべてがここにつながっていると感じる」と村岡。さらに、「こうしてまたパラリンピックに来られたのも、メダルを獲得できたのも、支えてくださった方々のおかげ」と感謝の気持ちを忘れない。

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