鈴木奈央、宮脇花綸がともに慌てた爆睡・寝坊エピソード披露 自分で決めた「変なルール」とは
フェンシングの宮脇花綸(左)とガールズケイリンの鈴木奈央(右) photo by Sunao Noto(a presto)この記事に関連する写真を見る宮脇花綸×鈴木奈央 アスリート対談 中編
フェンシングの宮脇花綸とガールズケイリンの鈴木奈央は、ともに目標としていた東京オリンピックには出場できず失意を味わっている。同い年であり、若くして将来を嘱望されてきたふたりは、どのようにして失意を乗り越え、再起を果たしたのか。当時の記憶を聞いた。
【五輪落選で感じた失望】
――2013年に東京でオリンピックが開催されることが決まりました。当時おふたりは高校1年生でしたが、どのように感じましたか。
宮脇 自分の国でのオリンピックは一生に一度の機会だと思いましたし、出場を狙える位置にはいたので、絶対に出たいなと思いました。
鈴木 私もそう思っていました。しかも自転車のトラック競技は静岡県の伊豆で開催されることになっていました。(静岡県富士市出身の)私にとっては地元中の地元という感覚だったので、強い気持ちはありました。
宮脇 そういえば、毎年(富士市に隣接する)沼津で合宿をするんですよ。
鈴木 えっ、そうなんですね。
宮脇 1度その近辺でアクティブレストをしようということになって、リフレッシュを兼ねて、みんなで自転車に乗ったんですね。「日本代表なんだから行けるでしょ」という感じでスタートしたんですが、その時は本当に地獄でした(笑)。普通の一般道で、すごく長かったですし、坂道も急だし......。最後は押してもらいました(笑)。
――話は戻って、ともに目標にしていた東京オリンピックには出場できませんでした。20代前半の時期でしたが、どんなお気持ちでしたか。
宮脇 オリンピックへの挑戦は二回目だったんです。その前のリオ大会もダメで、東京に出場できなかった時には、一生オリンピックには出場できないんだなと思いました。だったらフェンシングを続ける意味はないかなと思って引退を考えました。だからだいぶ落ち込みましたね。フェンシングにとってオリンピックはすごく大きなウェートを占めていて、日本で一番になってもそれほど注目されません。やっぱり世界で勝ってなんぼみたいなところは個人的にも感じていたので、このまま続けてもオリンピックに出られないのであれば、年齢的にも早めに切り替えて就職しようかなと考えていました。
鈴木 私はチームパシュート(4選手が協力して4キロを走るトラック競技)でオリンピック出場を目指していて、急激にタイムが伸びていたこともあって、出場できるかもしれないと思っていたんですけど、他の国もどんどんタイムを伸ばしてきたので、(国際大会の結果から)みんな薄々出場は厳しいかもしれないと感じていました。だから出場できないとわかった時にも大きな驚きはありませんでした。でも私もだいぶ落ち込みましたし、今後どうしようかなと思いました。それにコロナ禍だったので、レースもなくて、海外遠征もほぼなくて、ガールズケイリンも開催されないこともあったので、何のために競技を続けているんだろうと思っていました。
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