競輪・犬伏湧也、苦難の果てに3度目で養成所合格 今永昇太の衝撃、大学中退、1年間の就職、涙した日を語る (2ページ目)
パワフルな走りが信条 photo by Takahashi Manabuこの記事に関連する写真を見る
【プロ野球の夢を捨て競輪選手へ】
ポテンシャルはもともと高かった。小学2年生から野球を始め、高校では徳島の強豪・生光学園に進学した。途中まではピッチャーをやっていたが、その後、外野手に専念。左打ちの4番としてチームの中軸選手だった。
「僕は足が速いほうだったので、足を生かしたプレーを考えたら外野手が向いているのかなと思って外野手をやっていました。高校2年から試合も出ていましたので、チームのなかでは目立つ存在だったかもしれません。4番として(ホームランなどの)派手な記録はないですが、足が速かったので、内野ゴロでもセーフになることが多かったです」
聞くと50mは5秒8、100mは10秒台だったとか。陸上競技の選手でも全国レベルの快速ぶりだ。この特徴を生かし、甲子園を目指して懸命にプレーしたが、最高成績は3年時の県大会ベスト4。目標には届かなかった。それでも犬伏は野球でもっと上に行きたいと考えていた。
「高校のときからプロは目指していました。ただ高校からはいけないと思ったので、大学でもう1回4年間やってみて、プロを目指そうかなと思っていました」
そうして進学した駒澤大学で自分の競技人生を決定づける衝撃的な出会いがあった。それが同大学の2学年上の先輩、今永昇太(シカゴ・カブス)との対戦だった。
「すごかったです。これは打てる気がしないと思いました。こんな人がいるんだと、大学ってすごいなと思いました。今永さんの球ってストレートが速く感じるんですよね。140キロ後半くらいなんですが、もっと速いように感じます。紅白戦で対戦しましたけど、振り遅れましたね。これは無理だなと思いました」
犬伏は今永の圧倒的な実力に心が揺らいだ。俺は本当にプロになれるのだろうか――。霧が晴れないなかで、今度は別の出会いが訪れる。
「そのタイミングで小倉さんと話をさせてもらうきっかけがあったんです。競輪選手はこういうものでとイチから教えてもらいました。やる気持ちがあれば、自分で決めなさいという感じでした」
実は、犬伏にとって競輪は身近な存在だった。祖父の小林峰夫が元競輪選手で、小さい頃から「競輪選手になりなよ」と何度か誘われていたという。
今永のすごみ、小倉との出会い、そして競輪との縁。犬伏からプロ野球への思いが消えた。そして大学2年の夏に中退を決断した。
「野球への未練はなかったです。もういいかなと思いました。親からは『もう一回考え直してみろ』とめっちゃ反対されました。でも無理なものは無理なので、僕の意志は固いと伝えました」
こうして犬伏は競輪への道を歩み始めた。そこには競輪選手になって見返したいという思いもあった。
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